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いが再発見 No220 金石文研 滝之原地区を調査

活動を再開した名張金石文研究会はこのほど市内東北部・滝之原地区にある石仏や庚申碑を巡った。現在はひっそりとした集落だが、かつては伊勢神宮領だった歴史があり、その後も初瀬街道の一部として行商人が行き交い繁盛した地域である。その名残が「太神宮」の常夜灯や道標などに見られる。六箇山(ろっかやま)の中腹には源頼朝の命を助けた平清盛の義母、池禅尼(いけのぜんに)の供養塔の五輪塔が今も地元の人たちによって大切に守られている。最後に行った観音寺では神仏習合の小さな祠(ほこら)に神さまならぬ阿弥陀如来の石仏を見つけた。「これは記録していない仏像だ」と発見者は大興奮した。
滝之原公民館のすぐ隣が龍性院。唐招提寺に竹を送る会が毎年行う、女竹切り出しの作業現場になる場所でもあるが、今回は寺の境内に入る。西隅に十三重塔、庚申碑6基、月待碑4基が1か所に集めて祀られている。会員で金石文にくわしい今西正己さん(68)が解説してくれる。「享保、正徳、元禄の年号が彫られています。いずれも江戸中期のころ。けっこう古いものです。もともと勘定橋など道路沿いにあったものが何らかの事情でここに集められたのでしょう」
庚申行事とは健康長寿を願う庶民信仰で、特に江戸時代に広まり、各地に石造物が建てられた。月待行事も同じようなもので、前者が男性なら、こちらは女性が中心で、その記念に作られたらしい。
名張市内には庚申、月待碑を合わせて75基あるが、1か所に10基もあるのは珍しい。誰かがいう。「これだけあれば名張市の文化財に指定されてもおかしくない。伊賀市だったらすでに指定されているかもしれないよ」
辺りを見回しながら1人が、滝之原は天正伊賀の乱では焼かれなかったのでは。それは織田方に無視されたのか、または隠れ里とされてきたのかな、と問いかける。それに対して地元に住む西山法生さん(79)は、攻める織田信雄側だった北畠氏の家臣が多かったからでは、と答える。山に囲まれ見えるのは田んぼだけの静かな風景を見ていると、なんだか話がそぐわない。夢のような会話に聞こえる。
その会話に郷土史家の松鹿昭二さん(80)が入ってくる。「昔はこの辺りの道も初瀬街道とよんでいた時期もあったのです。伊勢と大和を結ぶ街道筋で、行商人たちの往来も激しかったはずです」
初瀬街道といえば美旗新田などの方向をふつうは考えるが、それ以前ではこの辺りも人々の往来があってもおかしくない。「ウチのおじいさん(祖父)も取れたマツタケを売りに行き、お金を久居あたりで使って帰ったとか聞いていますよ」と西山さん。
今でこそ周辺の山はうっそうと茂っているが、西山さんによれば小さいころは山に人の手が入り整備されていた。幼い子供でも平気で山を歩けた時代があったというのだ。「滝之原小学校は名張市で一番早い創立。確か1872年(明治5)のはずです」
これを聞くと、この辺りもかつては現在とは違う風景があったことが想像できる。ふと境内の東側を見ると道路に沿って自然石のバカでかい常夜灯が見える。近づくと天保4(1833年)の銘。「太神宮」と書いてある。伊勢街道がこの辺りにあった証拠でもある。人の往来も時代によって変わる。そのことがよく分かる常夜灯である……
続きは令和4年9月17日号の伊和新聞に掲載しています。
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