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宇流冨志禰神社「岩祭り」

宇流冨志禰神社(名張市平尾)で6月16日、令和6年「岩まつり」が執り行われた。当神社のご祭神「宇奈根命(うなねのみこと)」は水・穀物の神であり、神社西側の名張川岸にある「弁天岩」の上にお祀りされていた。この場所は名張川のうねりの側にあることから、うねる→うなね(宇奈根)となったと言われている。宇流冨志禰も「潤うふし水」という語源を元にできたと伝えられ、水と穀物の守りに相応しい神様である。9世紀頃、川の増水に備え、拝殿は高台に移ったらしいが、弁天岩へのご神体としての尊崇は変わらない。
弁天岩については、大切な伝承が残されている。崇神天皇66年(約2000年前)、天照大御神の鎮座所を求めて大和を出発した倭姫命(やまとひめのみこと)一行が、この地に巡幸し川沿いに見つけた大岩の上で休息した。その後、この地の「隠市守宮(なばりいちもりのみや)」で2年間、天照大御神を斎(いつ)き奉(まつ)った。天照大御神の安住の地が伊勢に決まるまで、倭姫は大和を出て、伊賀、近江、美濃、尾張、伊勢と巡幸するが(記録全部合わせると400年ほどになるという)、初期には隠(なばり)で天照大御神が祀られていたのだ。
「隠市守宮」と推定されるのが「宇流冨志禰神社」と約200㍍下流の「蛭子神社」である。蛭子神社は古くから「市守宮」と呼ばれ、拝殿額に「市守宮」と書かれてもいる。2つの神社は元々1つであったのか、あるいは、もっと多くの小さな神社があったかもしれない。また倭姫が天照大御神を祀った場所が弁天岩なのかどうかも分からない。残念ながら古い記録は、天正伊賀の乱(1581)で古文書、宝物、社殿、蔵、悉く焼き討ちにより失われてしまった。  約2000年前、一行は宇陀川から船でやって来たと思われる。陸上の初瀬街道ができるのは遥か後世の事である。疲れた倭姫一行は、この大岩の上で休んだという伝承は真実味を感じる。以来「弁天岩」と呼ばれるようになった。
「岩祭り」は、古の倭姫の偉業に思いを巡らせてくれる。やがて弁天岩の上には土が覆い被さり、何時生え、何時枯れたか分からぬ巨木の切り株が残っている。
祭りでは、本殿で宮司が祝詞を奏上している間、禰宜と巫女が弁天岩に赴き、玉串と塩(小さく切った白い紙片)を撒いて礼拝した。2人が拝殿に帰って来るまで、宮司の祝詞は延々と続いている。まるで2000年の時間に祈りを捧げているようで、自然と共に生きる日本古来の宗教の大らかさを感じた。