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芭蕉の高弟の功績しのぶ 第296回土芳忌
俳聖・松尾芭蕉(1644~94年)の高弟で、芭蕉の業績を後世に伝えた俳人・服部土芳(1657~1730年)の命日の1月18日、第296回土芳忌が西蓮寺(伊賀市長田)の墓前で行われ、芭蕉翁顕彰会(野口俊史会長)の会員ら約20人が高弟の遺徳を偲んだ。
土芳は伊賀藤堂藩の藩士であったが、9歳の頃芭蕉から俳句の手ほどきを受け、芭蕉と俳諧に親しんでいた。28歳の頃(1685年)水口宿に「野ざらし紀行」の旅の途中の芭蕉を追いかけ、20年ぶりの邂逅(かいこう)に夜を徹して語り合った。芭蕉はその時のことを「命二つの中に生きたる桜かな」と詠んでいる。土芳は、その3年後に藩を辞し蓑虫庵を結んで隠棲し、伊賀蕉門の中心人物となった。芭蕉の俳論を伝える「三冊子(さんぞうし)」は極めて高い価値を有し、句集の集大成「蕉翁句集」「蕉翁文集」をまとめた。また「横日記」「庵日記」「蓑虫庵記」は当時の俳諧について価値の高い資料となっている。 土芳の墓は長らく所在が分らなかったが、1960年境内の土中に埋もれているのが発遣され、西蓮寺により伊賀盆地を一望に見晴らす現在の墓所に安置された。山本純裕住職の読経の声が響くなか、顕彰会の人々の焼香が続いた。山本住職が「素晴らしい天気に恵まれ、景色を愛でながらお参りをして頂いた。296回目の法要となった。土芳は1730年1月18日に74歳でなくなったが、その4年前に自ら墓を建てた。墓は1960年に山本茂貴さんによって発遣された。戒名は些中庵浄山土芳居士(さちゅうあんじょうざんどほうこじ)」と解説した。
野口会長は「296回目になる土芳忌を、これからも積み重ね、土芳さんの功績をしっかり伝えて行きたい」と話していた。
土芳編「蕉翁句集」の歴史的意義
この日は、午後からハイトピア伊賀で「土芳編『蕉翁句集』の歴史的意義」の講話を芭蕉翁記念館学芸員の服部温子さんが行い、続いて「土芳を偲ぶ俳句会」が行われた。
講話は土芳が年代順に編纂したことと、未発表の句が含まれていることの歴史的意義。「蕉翁句集」が芭蕉没後15年の1709年に成立し、芭蕉初期の句や奥の細道を除く553句が含まれ、未発表の芭蕉の句が44句含まれていると話した。
特筆すべきは、句集は普通「四季別」に編纂されるが、土芳は作年順に編纂したので、作風の変遷がよく分かる。伊賀の時代の29歳頃まで、江戸での30代前半、30代後半、40代前半、奥の細道の後40代後半以降の作風の変化を実例で解説した。未発表の44句も、土芳が書き留めなければ知られることはなかった。惜しむらくは、土芳は「蕉翁句集」を編纂したが出版しなかったこと。この句集を基本に、井筒屋が「芭蕉句選拾遺」(四季順・1756年)、蝶夢が「芭蕉翁発句集」(作年順・1774年)を出版するまで長い年数を経過した。
この後「土芳を偲ぶ俳句会」が行われ、講話を受講した40人が続いて参加した。