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俳聖芭蕉翁をしのぶ「しぐれ忌」
俳人松尾芭蕉(1644~94年)の命日である11月12日(旧暦10月12日)、翁の遺徳を偲ぶ「しぐれ忌」が松尾家の菩提寺で墓碑がある萬壽寺(伊賀市柘植町)で営まれた。市や芭蕉翁顕彰会、地元住民ら80人が出席し、芭蕉の功績に思いをはせた。
「しぐれ忌」は俳聖松尾芭蕉を顕彰するため、1893(明治26)年の200回忌の東柘植村主催から、旧伊賀町、そして現在の伊賀市へと市町村合併の都度、その当時の行政が主催し、萬壽寺で開催されてきた。 伊賀市と芭蕉翁顕彰会の共催ではあるが、地元山出区の「柘植の里芭蕉翁を顕彰する会」の協賛と全面的協力のもとに毎年開催されている。式は本堂で、落合泰寛住職の法要の後、境内の墓碑前にて岡本栄伊賀市長、顕彰会の岡島久司会長らが献花し、国会、県、市議会の議員、市民が続いて焼香した。
の後、全員が本堂に戻り、名張市の作家、北村純一さんによる「芭蕉の横顔」と題する講演があり、熱心に耳を傾けていた。芭蕉は人生に3回の挫折を経験しているという。1回目は仕官先の藤堂新七郎の嗣子良忠に仕えていたが良忠が若死にし、士官の道が閉ざされた。2回目は江戸へ出て、上水道工事の監督をしていたが、請け負っていた藤堂藩が権力を失い、役人への道が閉ざされた。士官や役人になる普通の出世を願っていたが思うに任せず、俳諧宗匠として独立した後も、点取り俳諧、売れっ子俳諧を捨て(3回目挫折)旅を修行の場とする道を選んだ。俳諧の革新を大成した蕉風の祖松尾芭蕉も、普通の出世を願っていたが、挫折をばねとした偉大な凡人であった、と締めくくった。
柘植町山出区の芭蕉翁
昨年の「しぐれ忌」に投句された俳句が、萬壽寺の境内に張り出されていた。その中に 「村人の皆手伝ふて翁の忌 松尾紀子」の句があった。松尾家の直系ではないが、係累の末裔の方という。献身的な「柘植の里芭蕉翁を顕彰する会」の人々の活動を目のあたりにし、この後芭蕉翁公園を散策すると地域の人々の思いがひしひしと伝わってきた。