「令和の学校」ってどんな学校 No27 伊賀市立大山田小学校
自分がすき! 友だちがすき! 大山田がすき!
雲ひとつない秋晴れを体中で感じながら、車を走らせる。私は取材に行かせてもらう時は、約束の時間の10分前には必ず校門に到着するようにしている。今日の出発は伊賀市役所。20分もあれば到着する。約束の30分余り前に市役所を出て、気持ちも軽やかに車を走らせる。大山田小学校へは初めてだが、その近くは通ったことがあった。そして目的の場所に到着。道路脇に車を停める。「あれッ?」運動場には、大きなサッカーゴールはあるが、ブランコやジャングルジムなどの遊具が無い。どうやら目的の大山田小学校ではないようだ。大山田中学校かな。間違えた。慌てて車を動かせ、周辺の学校らしき建物を探す。道はドンドン狭くなっていく。困っている時、出会った通りがかりの女性に尋ねた。「大山田小学校はもう少し戻って……」どうやら行き過ぎたようだ。お礼を言って引き返す。女性に教えてもらったとおり行くと、木造の威風堂々とした校舎が目に入った。「ここだ!」時間は約束より2分ほど超えていた。駐車場に車を停め、駆け足で玄関に。「大切な約束の時は必ず確認を……」思い込みの怖さを痛感した。約束の時間に2分遅れたことを西口修身校長に詫びながら、挨拶をさせていただくと、校長先生は優しく微笑みながら「いいですよ」と言ってくれ、心の乱れも平常心へと戻った。「大切な時間に遅れて申し訳ありませんでした」。
木造の立派な校舎だが。
木の香りがする立派な校舎。地元の人の教育に対する熱い思いや子どもたちへの期待が詰まっている校舎だと思う。本校は、大山田村立東小学校と西小学校が統合され、市町村合併の5カ月後の平成17年4月に伊賀市立大山田小学校として開校した。
伊賀市で教員を続けられているのか。
初任は、名張市のつつじが丘小学校。当時つつじが丘団地の入居が始まったころで、児童数が多くプレハブ教室で授業をしていた。スポーツ少年団でサッカーの指導もしていた。当時は、スポ少の指導は教員がしていることが多く、若い先生が土日の指導にあたっていた。6年間お世話になった。ある時サッカーの保護者に誘いを受け、青蓮寺ダム周辺を走る駅伝大会に教員チームを作って走ったことがあった。距離は短かったが、急な上り坂で大変きつかった思い出がある。その後、母校である大山田西小学校に戻ってきて、9年間勤務した。当時の教え子が今保護者になったりしている。その後、教職の現場を離れるが、三重県教育委員会に籍を置いて、大山田村の教育委員会で派遣社会教育指導主事として2年、伊賀町教育委員会で3年勤務した。スポーツ担当として、それぞれの町村でいろんな事業を行った。もともとスポーツは好きだったので地域の人々にスポーツを積極的に行い、楽しんでもらおうと考えていた。次に上野市教育委員会、伊賀市教育委員会で派遣社会教育主事として計3年間、スポーツや生涯学習の担当をさせてもらった。学校とは違い、大人の人との関りが多くなり、いろんなことを学ばせていていただいたし、お世話になった。今考えると、大変貴重な経験をさせていただいたと思う。今でもいろんな人に声をかけていただくことがある。8年ぶりに学校に戻り、上野西小学校での勤務となった時はやはり嬉しかった。3年間の勤務の後、伊賀市教委の指導主事となった。当時、奈良県との人事交流が行われていたので、奈良県の小学校でも勤務した。隣の県ではあるが、三重県から派遣されたこともあり、大変大事にしていただいた。奈良県の教育を経験させていただいたのはいい勉強になった。奈良県から戻って、上野西小学校に教頭として2年間勤務した。その後、校長として阿山小学校、上野西小学校を経て、今年本校で勤務させていただいている。大山田西小で勤務していた若かった頃、派遣で大山田村にいた時、スポーツ少年団等でサッカーの指導をしていた時、それぞれの年代でこの大山田に関わらせていただいた。お陰で多くの人と関係を持つことができ、今こうして母校の校長として勤務させていただいていることは本当にありがたい……
続きは10月16日号の伊和新聞に掲載しています。
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