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いが再発見 No201 奈良鳥ケ峰 高取城を訪ねる

幕末の1863年(文久3)8月、吉村寅太郎ら尊王討幕の過激派浪士が決起、奈良・五条の代官所を襲い代官ら5人を殺害。その後、各地を転戦するが、約1か月で壊滅する。「天誅組の乱」と呼ばれ、後世に明治維新の先駆けと評価されるが、その戦の模様を描いた随一の絵図が名張市の神社に現存する。浪士が代官所襲撃の後、次の目標にしたのが壷阪寺近くにある奈良・南部の高取城だった。高取藩士たちは大砲でもって迎えうち、天誅組を見事に撃退。敗走させた。その一端は作家、司馬遼太郎の短編小説「おお、大砲」にも描かれている。現在も日本3大山城の1つとして有名な高取城とはどんなところか行ってみた。
近鉄大阪線大和八木駅で下車、乗り換えて近鉄吉野線壺阪山駅で降りる。同駅の近くには文楽・歌舞伎の名作「壷坂霊験記」の舞台となる壺阪寺がある。駅の裏手の高台、現在、高取町役場が建っている周辺が天誅組の本隊と高取藩士が激突した場所である。約250人の藩士たちは小高い丘に砲台を築き、天誅組1000人の兵を攻撃したのである。その現場にはいまも「天誅組鳥ケ峰古戦場」の石碑。高さ3㍍はある。その横に当時の合戦の絵図の一部が掲げてある。あとで聞いたが、これが名張の生人形師、安本亀八が実際の見聞をもとに描いた戦闘図だった。亀八は当時、名張・新町に住んでいたが、天誅組の乱が起こったとき、たまたま招かれて五条に滞在していた。絵図は翌年描かれたが、本人は現場が分かるうえ、鎮圧する側の名張藤堂藩の鉄砲隊にも知り合いがいて、戦闘の模様を詳しく知ることができた。それが絵のリアルさも相まって今も第1級の史料として評価される理由だという。  その戦闘のありさまは作家、司馬遼太郎の小説「おお、大砲」でも見ることできる。1863年8月26日明け方、十津川の農民兵や脱藩浪士たちを主体とする天誅組が五条方面から高取城めがけて攻めてくる。そのとき高取藩が陣地とし構えたのが鳥ケ峰。予定戦場である五条から高取に入る街道を見下ろす低い丘で、砲兵陣地としてうってつけだった、とある。一本道を攻めてくる敵に対して、自慢の大砲をぶっ放す。にわか兵で攻城法を知らない天誅組は大砲の威力に驚き、たちまち退却をはじめ、戦闘は1時間で終了。高取藩の圧倒的勝利で終わってしまった、とある。
鳥ケ峰古戦場を見た後、高取町観光協会の副理事長でボランティアガイドも兼ねる河合茂さん(72)に会う。天誅組の行動を教えてもらい、高取城を案内してもらうためである……

続きは令和4年3月12日号の伊和新聞に掲載しています。
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