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いが再発見 No202 五条代官所・本陣跡を訪ねる

後世に明治維新の先駆けと評価された幕末の1863年(文久3)8月に起こった「天誅組(てんちゅうぐみ)の乱」で幕府側の高取藩と天誅組の戦闘を前回紹介した。今回は倒幕軍の先鋒になろうと決起した志士たちが最初に襲撃した奈良・五条代官所跡、殺された代官たちの墓、幕府方で鎮圧の主力部隊となった藤堂藩の本陣跡などを訪ねた。五条は名張とゆかりもある。江戸初期、徳川家康に認められ、五条二見城主となり領民に慕われた松倉重政の父・重信は伊賀を治めた筒井定次の重臣として伊賀梁瀬城(現在の名張市)に居住、領内を統治していたことが知られている。

JR和歌山線・五条駅から歩いて15分、代官所の長屋門が残る民俗資料館を訪ねる。「五条市観光ボランティアガイドの会」の内倉保さん(71)に天誅組に関わる旧跡を案内してもらうためだ。長屋門は幅40㍍。天誅組に焼かれた代官所は翌年、この地に移築されたというが、確かに立派なもの。それには理由があると、内倉さんはいう。「五条は幕府の直轄地で、7万石の天領。領地の広さは大和では、奈良奉行所に次ぎ2番目だと聞いています。それにプラスして山も管理。吉野の材木もここの管轄だったようです。それに伊勢、紀州、高野街道など5つの街道が交差し、けっこうな賑わいだったのですよ」  この話で五条が幕末当時、物流の集散地で、人の交流も多く、交通の要衝であったことが分かる。それに吉野や十津川地方は古くから尊王の気風があったことでも知られていた。
天誅組の乱とは、1863年(文久3)8月13日、孝明天皇による攘夷祈願のための大和行幸が決定。その先駆けとして尊王攘夷の過激派が倒幕のため大和で挙兵した事件のことだ。内倉さんが天誅組の代官所襲撃までの足取りを簡単に説明してくれる。「吉村寅太郎ら一行40人ほどは8月14日、京都を出発。堺に上陸した後、陸路で五条へ向かう。16日は同志で富田林の神戸(かんべ)藩飛び地庄屋、水郡善之祐(にごり・ぜんのすけ)宅で宿泊、翌日、観心寺の楠木正成の首塚などに参り、夕方4時ごろ70~80人の軍勢で代官所を襲ったのです」

ここの神戸藩とは伊賀の伊賀神戸だと聞いて意外な感じがする。もちろん知らなかったからだが。当時、代官所の役人は15~16人くらいだった、と内倉さん。天誅組もそのことは承知だったはず。幕府の大きな天領の割には役人も少なく、警備が手薄だったのだ。
殺されたのは代官ら5人。代官の鈴木源内は60歳くらいで、温厚篤実な人物。地元でも人気があったという。ところが1人、部外者がいたというのだ。あんまの嘉吉、今でいえばマッサージ師だったらしい……

続きは令和4年3月19日号の伊和新聞に掲載しています。
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