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いが再発見 No223 企画展「大友皇子と壬申の乱」

日本古代史上、最大の争乱といわれる壬申の乱(672年)で皇位継承を争い、後に天武天皇になる大海人皇子に敗れた大友皇子を取り上げた企画展「大友皇子と壬申の乱」が滋賀・大津市歴史博物館で開かれている。今月23日まで。壬申の乱から1350年になるのを記念した催し。内容は2部に分かれ、96点を展示。前半では争乱の経過、後半では敗者とされた大友皇子が明治時代に弘文天皇として復活するまでをたどる。同皇子の別名は伊賀皇子。母は伊賀の豪族出身で、伊賀宅子娘(いがの・やかこのいらつめ)と呼ばれた。壬申の乱には名張も登場する。その興味もあり、同展をのぞいた。
大津市歴史博物館は大津市役所の背後の丘を少し登ったところにある。眼下に琵琶湖が広がる。東岸の近江富士、三上山も遠望できる。眺めはいい。琵琶湖の西岸になるこの周辺に、天智天皇が遷都(667年)し、壬申の乱で灰燼(かいじん)に帰した近江大津京があったのだ。戦いで最期を遂げた大友皇子の墓も近くにある。
同館の学芸員、福庭(ふくば)万里子さんに今回の企画展の意義を話してもらう。「近江京は壬申の乱で敗れ、都としてはたった5年半で消えてしまいました。日本書紀(720年)に記された壬申の乱は勝者である大海人皇子側に立って書かれたもの。それより31年後に作られた漢詩集『懐風藻』には、大友皇子は学問にたけ、詩文の才もあった優秀な皇子だったとあります。大津市内には大友皇子にまつわる伝承や皇子を祭神にした社寺がけっこうあります。それも含めて紹介したかったのです」
壬申の乱から1350年を迎えるこの年がそのタイミングだったという。確かに地図を見ると、皇子やその群臣を祀った社寺や墓が最後の戦いとなった瀬田橋周辺に点在している。地元にとってはよほど誇りある人物だったに違いない、と想像する。
大海人皇子が天武天皇として即位した飛鳥京跡は何度か見学したことがある。しかし大津京跡には行ったことがない。どんなところにあるのかやっぱり確かめてみたいと思い立ち、同博物館にくる前に訪ねてきた。
JR湖西線大津京駅で下車。京阪石山坂本線に乗り換え、1駅北の近江神宮前で下りる。場所が分からないので駅員さんに聞くと、駅裏の西側一帯を指して「ここらあたりが大津京跡です」と教えてくれる。「ここらあたり」といわれても漠然としているので再度、駅前の雑貨屋さんで聞く。「道路を隔てたすぐ前がそうです」と女主人。見ると錦織(にしこおり)バス停の標識。その横の小さな丘に碑が建っている。「史跡近江大津宮錦織遺跡第1地点」と書いた解説板がある。1974年(昭和49)に発掘調査。建物跡などが見つかり、その後も調査を続行。1979年(昭和54)に国の史跡に認定されたとある。見回すと周辺は住宅地。発掘するのに苦労もあったに違いない。発掘は何か所もわけて行われた。それが第1とか第2地点の標識に表れている。駅員さんがこの辺り一帯といった意味がようやく分かった。飛鳥京は山に囲まれた盆地。こちらは琵琶湖がすぐ前。水辺が近い。2つを比べて、大津京は水運の便を考えたのかなと勝手に思ってしまう……

続きは令和4年11月4日号の伊和新聞に掲載しています。
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