いが再発見 No226 5年余の取材を振り返って
「いが再発見」も今回が最後である。スタートしたのが2017年10月。それから丸5年と少し。226回。よく続いたものだ。最初、原稿を依頼されたとき、奈良県人なので地元のことはよく知らないと断ったのだが、けっきょく引き受けさせられてしまった。その場合どうするか。地元をよく知る人に教えてもらうことである。名張、伊賀両市の郷土史家、教育委員会の人たち、学芸員さんにずいぶんお世話になった。その取材で分かったことは何か。みなさんが地域の伝統・文化に誇りと自信をもって生きていることだった。連載を振り返り、その人たちの矜持に支えられてここまでやってこられたと感謝している。
まず困ったのは何を書くかである。名張に住んでいないのだから地元に何があるか分からない。そのとき思い浮かんだのが牛汁。豚汁はよく食べるが牛汁を食べたことがない。伊賀牛は松阪牛と並ぶブランドだ。そこで自分に興味があるものを取り上げたいと思った。
名張駅西口前の広場に能楽の大成者、観阿弥の銅像が建っている。その観阿弥が「座」を立ち上げた場所として、名張の小波田(おばた)と大和の結崎(ゆうざき)の2説があるのを知る。実は近鉄橿原線・結崎駅のホームに「観世発祥之地面塚 結崎村」の碑があり、結崎が観世座のできたところと思い込んでいたからだ。
さっそく2か所を見学する。小波田の「観阿弥ふるさと公園」には観阿弥創座の碑がある。一方、奈良・川西町にも「観世流発祥の地」の碑が建っている。しかし、説明文には「座を立てたのは名張・小波田」とある。創座の地は小波田でまちがいなさそうだ。その小波田には能楽堂があり、毎年、観阿弥祭を開催している。観世座がこの地から始まったことを顕彰するお祭りで、当日は大蔵流狂言が演じられる本格的なものだ。
しかし、この観阿弥創座の問題はその後も続いているのである。伊賀市出身の文献学者久保文武さんが、伊賀市の旧家から発見された上島文書から観阿弥は実は伊賀の服部家の出自であり、妻は小波田出身であることなどを発表。画期的な論文になるはずだったが、学界からは無視。能楽学会から同文書は江戸時代に作られた写本。あとで作られた偽書で信用できないと黙殺されてしまったからだ。その久保さんは2004年に亡くなってしまう。
だが、この論文は再び日の目を見ることになる。「梅原学」で知られる文化勲章受章者で哲学者の梅原猛さんが、久保さんの「観阿弥の伊賀出生説」を全面的に支持したからである。ところが、偽書説を主張した能楽学会の権威である学者本人がこの年、亡くなってしまったのだ。だから論争は宙ぶらりんのまま現在に至っている。
取材を始めたころ驚いたことがもう1つある。俳聖芭蕉に出生説が2つあることだった。71回芭蕉祭をのぞいて上野公園の会場を後にしようとして1枚のビラをもらう。それは芭蕉翁生誕宅跡を訪ねるツアーの内容だった。私の知識では芭蕉の生誕地は同公園近くの上野赤坂にあるはずだった。ビラには生誕地は上柘植(つげ)となっていたのである。興味に駆られて同地を訪れたのを覚えている。結局、分かったことは生まれて間もなく上野赤坂に移ったことが疑問を生む原因だったようだ……
続きは令和5年1月21日号の伊和新聞に掲載しています。
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