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いが再発見 No174 「相撲発祥の地」はどこか?

大相撲名古屋場所は進退を掛けた横綱白鵬が45度目の劇的優勝を遂げ、復活を強く印象付けた。しかし、残念ながら伊賀出身の関取、千代の国は惜しくも勝ち越すことはできなかった。来場所こそはなんとか、がんばってほしいものである。それにしても国技といわれる相撲はいつごろ、どこで始まったのか。お隣の奈良県の桜井、葛城、香芝の3市が「わが市こそが相撲発祥の地」と名乗りを上げている。そこはどういう場所なのか、根拠はどんなところにあるのか。現地に行って関係者に会い、その思うところを聞いてみた。
相撲神社
名古屋場所千秋楽、結びの一番は見ごたえのある勝負だった。全勝同士の白鵬と大関照ノ富士が対戦、気迫に勝る白鵬が勝ったが、勝るとも劣らない風格が照ノ富士にあった。そんな人気のある相撲はどこで生まれたのだろうか。相撲発祥の地を名乗る桜井市にある相撲神社に行ってみる。
近鉄桜井駅前から国道169号線を天理方面に北上。卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳を右手に見ながらJRまほろば線の跨線橋を越えて辻北の交差点を東に1㌔いったところに相撲神社はある。右手に三輪山を見ながら坂道を上る。途中に垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)跡伝承地の解説板がある。さらに行くと天理に向かう山の辺道の標識。それを超えて200㍍ほど上ったところ。石の鳥居をくぐると右が神社だが、境内は狭い。30㍍四方ぐらいの広さしかない。その中に神社の祠(ほこら)、ライオンズクラブ寄贈の力士像、野見宿祢(のみのすくね)のレリーフ、昨年(令和2)の初場所で優勝した奈良県出身の徳勝龍関の記念碑。この地は「カタヤケシ」と呼ばれる地名で、相撲発祥の地であるとの説明もある。奥の方の土俵とおぼしき場所はブルーシートで覆われている。ただ、すべてが雑然として、手入れが行き届いていないのが残念だ。
中一郎宮司
この神社から200㍍ほど奥にある本社の大兵主(だいひょうず)神社に行き、中一郎宮司(88)に、相撲発祥の由緒や現状について聞いてみる。まず挙げてくれたのは日本最古の歴史書「日本書紀」巻6、垂仁天皇7年7月7日の条。大和に当麻蹴速(たいまのけはや)という怪力の持ち主がいて、素手で動物の角をへし折り、曲がっている鉄の鈎(かぎ)を簡単に引き伸ばすほどの力自慢。常日頃から俺にかなう者はいないと豪語していた。これを聞いた天皇が、蹴速に勝てるものはいないのかと家臣に尋ねたところ、出雲の国に野見宿祢という力の強い人がいる。これと戦わせてみてはと進言。天覧の対決が実現する。宿祢は蹴速のあばら骨を折り、腰骨を踏み砕いて殺してしまった。宿祢は蹴速の領地をもらい、出雲に帰らず、そのまま大和で天皇に仕えた。宿祢がもらった領地は腰折田(こしおれだ)と呼ばれ、いまも地名が残っている。ただ、戦った場所は明らかではない。では「カタヤケシ」の意味は何か。カタヤは「形屋」とも書き、古語で角力(すもう)場を指すという。つまりこの場所で2人が戦ったとされ、相撲発祥の地と呼ばれるのである。それを根拠に1962年(昭和37)、日本相撲協会は時津風理事長を祭主に、相撲発祥地顕彰大祭が行われた。当時の幕内全力士が参拝、大鵬・柏戸の両横綱が土俵入りを披露し、相撲界公認の発祥の地に昇格した。ブルーシートで覆われた場所が、土俵入りの現場だったわけである……
続きは7月31日号の伊和新聞に掲載しています。
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