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いが再発見 No179 藤堂家邸について今分かったこと

名張市のシンボルともいえる名張藤堂家邸は数少ない江戸時代の上級武家屋敷として知られるが、これまで5期にわたり増改築されたことが分かっている。郷土史家、門田了三さん(67)がこのほど、「名張藤堂家の今」と題して講演する予定だったが、コロナ禍で急きょ中止に。代わりにユーチューブの動画配信でその増改築の具体的年代を推定解説したが、改めて本人から内容を聞き、紙上で取り上げる。同家邸のように当主の私的生活の場である奥向き住居が残っているのは全国的にもたいへん珍しいからである。
名張藤堂家は高吉に始まる。1636年(寛永13)に伊予・今治から領地替えで名張にやってきた高吉は松倉豊後守の居館のあった高台に屋敷を構えるが、その後、名張大火(宝永7=1710年)により屋敷は全焼する。順次再建されるが、幕末期に作成された「名張御殿図」では、畳の数だけでも1083畳あったと伝えられている。 明治維新で廃藩置県になり、元大名は華族となり、東京に移住。大名家の建物は取り壊されるが、名張藤堂家は家臣で大名でなかったために、公的・接客用の建物は破却されたが、当主が実際に生活する建物はそのまま残されることになった。結果的にはそれが幸いしたのである。 門田さんは今回のテーマについて説明する。「『名張藤堂家の今』というタイトルですが、ほんとうは、それについて今分かったこと、というのがより正確です」 これまで解体修理が行われ、発掘調査などで5回増築されていることが知られている。
しかし、江戸中期ごろに建てられたといわれながら、増築時期や建築者の名前を記す棟札や文書がないため建築年代がもう1つはっきりしないと、門田さんはいう。「建てられた順番は判明しています。しかし、実年代があてはめられていません。それを少しでも明らかにしたかったのです」 大名屋敷には客を迎え、執務をする「表」と呼ばれる公的建物と、「奥」と呼ばれる私生活をする空間がある。奥の部分には中奥(なかおく)と呼ばれる当主が生活する場もあるのだ。「この建物は当主が結婚するときに新しく増築するのが本来のようです」と門田さん。将軍家の場合を例に説明してくれる。「将軍の娘が大名に降嫁するとき、大名家は御成り御殿を建てます。家格が上がるのを喜ぶからです。例えば什器にも将軍家の家紋、葵(あおい)ご紋が使えるということ。将軍家と同格という意味も持っているのです」 それと同じようなもので、当主部屋を増築する場合、婚姻がそのきっかけというか目安になるというのだ。 名張藤堂家の7代から9代目を見てみよう。門田さんが解説をしてくれる。7代目は長旧(ながひさ)公。1741年(寛保1)に家督を継ぐ。長旧は本家、津7代藩主の娘、貴品(きほ)を許嫁(いいなずけ)として迎える。このころに建てられたのが祝の間と12畳の部屋だが、残念ながら彼女は15歳で早世、破談となってしまう。ただ、1758年(宝暦8)に棟上げされた書院はやはり婚姻と関係があると、門田さんはいう。「書院は公の接待の場です。自分より格上の人を迎えるために建てられるもの。この場合は、藩主の娘と婚姻したわけですから、いつでも藩主を迎える用意があるとの意味もあります」 これが現在残っている名張藤堂邸の1期目だと、門田さんは指摘する。
では2期目はいつなのか。それが同邸の南にある中奥とそれに隣接する6畳間で、8代長教(ながのり)公のとき。長教は津9代目藩主の娘、湧(わき)と1793年(寛政5)に婚約する……

続きは9月11日号の伊和新聞に掲載しています。
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