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伊賀再発見 No183 特別展「芭蕉~人を旅する~」

俳聖芭蕉は日本全国を旅し各地の門人たちと交流、すぐれた作品を残した。今回、ふるさと伊賀と晩年を過ごした近江に焦点を当てた特別展「芭蕉~人を旅する~」が、伊賀市上野丸之内の芭蕉翁記念館で開かれている。12月26日まで。芭蕉の手紙は200通余りが知られているが、新たに発見された手紙が展示されているのも見どころだ。なお、企画展「芭蕉さんがいっぱい」で、絵に描かれた芭蕉像の人気度を来館者が投票で選ぶ「総選挙」の結果も発表されている。さて、どの像が選ばれたのだろうか。
館内に入ってまず気になるのは前々回の「芭蕉さんがいっぱい」で選ばれた芭蕉像はどれなのか。トップになったのは、芭蕉が眠っている近江・義仲寺の住職、露城(ろじょう)の描いたものだった。やわらかな筆づかいが女性を中心に人気があったと解説にある。投票総数1122票のうち193票を獲得。これまで芭蕉のイメージといえば、求道者的な雰囲気のような気がする。ところが現実の1位はいかにも俳画的人物像。とぼけた味がその像からただよってくる。これは意外だった。2位は大正・昭和に活躍した野田九浦の描いたもの。つえ、笠、頭陀袋(ずたぶくろ)を提げ、旅に生きる芭蕉で、これまでのイメージそのものだ。こちらがいかにも芭蕉らしいと私は思ったのだが、予想は見事に外れた。3位はよく教科書に載っているあぐらをかいた芭蕉像。墨染の俳人姿で、禅僧と見られてもおかしくない。精神性を強調していると思われる。子どもたちも投票できたからだが、結果を見ると、やがて将来の芭蕉像も変わってくることを予感させる。
前半は芭蕉と近江の門人たちとの交流を展示。解説を同館学芸員の服部温子(あつこ)さんにお願いするが、特におすすめは何かを聞いてみる。「やはり今回初公開の元禄3年(1690年)に芭蕉が門人の智月(ちげつ)にあてた手紙ではないでしょうか」
その手紙とは、近江の幻住庵滞在中に芭蕉が書いたもの。智月は大津の商人の妻で、近江滞在中に何かと世話を焼いた人だという。これまで智月宛て書簡は6通あるが、今回の発見で7通目になるという。「この手紙は個人が所蔵していたもので、これまで知られていなかったものです」
内容は①銘酒を送ってくれたお礼②尾張から客がくる③浴衣を送ってくれたお礼④金2分を預けておく(1両を10万円と換算して、その半分、現在の価値では5万円程度か)。⑤智月の孫のとう助のきげんはどうか。⑥同じ門人で智月の弟の乙州(おとくに)にも触れている。服部さんは、芭蕉の手紙でお金のやり取りが出てくるところはほんとうに珍しいという。「この手紙からは芭蕉がいろいろな人と関わっていることがよく分かります。芭蕉の生活を具体的に知ることができて貴重です」
手紙(真筆)は11月1日まで見ることができ、その後は複製パネルを展示する。
芭蕉といえば孤高のイメージがあり、門人にも威厳を持って接したように思っていたが、説明を聞くと、気配りもあり、普通の生活者の顔が浮かんでくるのである。智月さんは食事や洗濯など身の回りの世話をしていた人。芭蕉にとって家政婦さんの役割もしていた。だから気安く何でも話すことができた。いわば親戚づきあいの関係といった方が分かりやすい。その証拠が後の解説に書いてある。
芭蕉は元禄7年(1694年)秋、大坂で病に倒れる。その病状悪化を聞いて智月の弟、乙州は枕元に駆け付けて、芭蕉の最期を看取ることになった。姉の智月は弟の妻と共に芭蕉の死に装束を縫ったとある。芭蕉と智月一家とはそんな親しい関係だったのである。これは今回初めて知った。
もう1つ、元禄3年9月に乙州こと又七に送った書簡がある。伊賀へ用事で行く姉の伝言を書いた乙州の手紙に対する返信だが、ここでも一家との親しい交流がうかがえる……

続きは10月9日号の伊和新聞に掲載しています。
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