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伊賀再発見 No185 箕曲地区の歴史を巡るハイク

コロナ禍がやや下火になりかけた10月中旬、名張市のボランティアガイド「おきつも」の人たちと歩くハイキング企画「箕曲(みのわ)地区の古代から近世の歴史を巡る」が行われた。今年2回目で45人が参加。6㌔を約3時間かけて歩いた。百合が丘の住宅地の一角にある古墳をのぞき、名張盆地を見下ろす峠が曽爾古道の一部で、古来人々が行き交った道であることを知る。今も利用されている用水路が実は江戸時代に飢饉(ききん)に備えて作られたものであり、後の天武天皇が起こした壬申の乱で、日本書紀に残る「隠駅家(なばりのうまや)」跡が、箕曲中村にあると教えられた。知らないことを学ぶのは楽しい。
三重県下で新型コロナウイルス感染防止の緊急事態宣言が発令され、延期されていた「おきつも」主催のハイキングが6か月ぶりに再開された。心配されていた雨も降らず、まずまずの行楽日和となる。密を避けるため集合場所となった百合が丘西5番町の名張教育センター駐車場から、人数がそろい次第出発する。1班のガイド役は星崎邦男さん(71)。スタート間もなく、百合が丘団地の中に入っていく。「えっ、こんなところに古墳があるの」と思うほど近くに「中村古墳高尾支群」と書いた解説板がある。中村古墳群は前山と呼ばれる丘陵地にあり、26基が確認できるそうだ。
その代表的な5号墳を案内してもらう。標識から5㍍ほど上がったところの古墳を指さして星崎さんが解説。「名張には350ほどの古墳がありますが、方墳はここだけ。あとは円墳になります。古墳時代の真ん中ごろ、5世紀に作られたものです」
方墳とは表面が四角い形をしたものだが、ヤブの中で雑草に覆われているので説明されないと分からない。木棺が2基埋められているそうだが、星崎さんによると、周辺を治めていた村長(むらおさ)ではないか、ということだった。
さらに団地内のネムの木公園で、この辺りにあった土山(どやま)遺跡の説明を受ける。紀元200年ごろの弥生後期後半から小規模の稲作をやっていた痕跡があるという。勾玉(まがたま)などの祭祀遺構が発掘され、その遺物は安部田の郷土資料館に展示してあるそうだ。
次はこれも団地内のニレの木公園の奥にある中村古墳17~20号を見学。その代表である円墳18号は中がのぞくことができるというので行ってみる。入口の幅は30㌢くらい。懐中電灯で照らすと、奥行きは1・5㍍ほどあり、大人1人が入れる広さ。その奥に横穴式石室があるそうだ。星崎さんが説明してくれる。「古墳は先祖崇拝が目的で作られたもので、文化庁の発表では全国に16万基が確認されている。しかし、古墳時代に日本列島には200~300万人が住んでいたと推定すると、100万基を超える古墳があってもおかしくないという人もいます」
古墳時代には日本列島は300万人程度の人口だったのか。そんなことは考えたこともなかった。初めて聞いたので面白かった。しかし、その古墳も6世紀半ばに仏教が伝来することで急速に減っていったということだ。
近くに白早稲(しらわせ)遺跡もある。ここから有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)が出土。手で投げるヤリの先端に付ける石器で、狩りの道具。1万数千年前の縄文時代初期だけに見られるものだという。ただ、古墳を3つも4つも見学すると、素人にはどれも同じに見えてくるから困った。それにしても住宅街にいくつも古墳があることの方に驚く。縄文時代からこの丘にたくさん人間が住んでいたとは。……

続きは10月23日号の伊和新聞に掲載しています。
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