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伊賀再発見 No189 金石文研 柏原・星川周辺を再調査

二十数年ぶりに活動を再開した「名張金石文研究会」は、11月中旬、市内赤目町の柏原、星川周辺にある文字の刻まれた遺物を再調査した。柏原城址周辺では段丘の続く天然の要害にふさわしい地形をながめ、なぜここが天正伊賀の乱で最終決戦地となったかを考察。神社の遺物にかつての城主、滝野氏の足跡を探した。星川では名張の一の鳥居の石を切り出した現場を訪ね、線刻された岩の不動明王が事故で亡くなった人たちの供養碑であったことを知る。この研究会が遺物の物見見物でなく、後世の人たちへの研究・発信の場にしようとする会員の意欲をそこに感じた。
柏原城址に近い勝手神社は第2次天正伊賀の乱(1581年)当時、柏原城主であった滝野吉政が建てた神社と入口の解説板にある。しかし織田信長に攻められ焼失。のちに文禄2年(1593年)に再建されたとある。駐車場の横から境内へ。塀の手前に1・5㍍ほどの高さの灯篭。金石文にくわしい今西正己(まさみ)さん(67)が解説してくれる。「これは神社にある4基のうちの1つ。何らかの理由で倒壊。ここに運ばれたものと思われます」
文化9年(1811年)に当村の勘右衛門が寄進したと彫ってある。灯篭の中で火を灯すところを火袋と呼ぶそうだ。「この火袋はけっこう大きいです。普通はもっと小さいのが多いです。とにかく保存されているだけでありがたい」
境内の薬師堂前にも灯篭が2基ある。ただ、いつの時代か分からない。会長の松鹿昭二さん(79)によれば「灯篭などは寄進するときに記録帳に残すものなのです。しかし、責任者が台帳を持ち回りするうちになくしてしまったのでは。惜しいですね」。
その横に石碑など10ばかり。角にある石碑がいちばん大きい。高さは50㌢ほどあろうか。「奉勧請喜常津賀」と彫ってある。ここで松鹿さんから、これは何と読めるか質問が出る。みんな首をかしげる。私はもちろんわからない。すかさず松鹿さんが「これはキツネづか」と読める、と回答。なるほど言われてみれば読めないことはない。松鹿さんが解説してくれる。「天正伊賀の乱でこの辺りは荒廃。キツネが多く出没するようになり、駆除のためたくさん殺したそうです。その殺生を供養するためこの碑ができたと聞いています……

続きは11月20日号の伊和新聞に掲載しています。
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