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伊賀再発見 No190 上野城に関わる2人の偉人

大阪城と並び日本一の高さを誇る上野城の高石垣を築いた戦国武将、藤堂高虎。一方の川崎克(かつ)は戦前の政治家として知られる。上野城にかつてあった天守閣がないのを嘆き一念発起。私財を投じて1935年(昭和10)、天守閣を再興した人物だ。伊賀市のシンボルである上野城ゆかりの2人についての講演会がこのほど、伊賀市上野丸之内のハイトピア伊賀で開かれた。講師は同城を管理する「伊賀文化産業協会」の専務理事、福田和幸さん(73)。世評と異なる高虎の評価、名張市で出生した推理小説作家、江戸川乱歩と川崎との因縁、乱歩と藤堂家との意外な関係などが披露され、聴衆のうなずく姿が見られた。

会場は上野城が近くに見えるハイトピア伊賀。タイトルは「上野城と高虎そして川崎克」とある。講演にふさわしい場所ではある。「藤堂高虎(1556~1630年)は1㍍90近い長身。体重も113㌔もある男だったそうです」と福田さんが教えてくれる。
一説によれば江戸時代の平均身長は155㌢程度というから、大男である。12歳のときすでに背丈は親、兄を追い越していた。逸話もある。餅(もち)をただ食いして見つかった。お金が払えない。そこで出世払いということで許してもらう。その経験が高虎の合戦用の旗指物のデザイン、三つの白い丸餅につながったというのだ。白餅は城持ちにつながる。縁起がいいということでもあったらしい。しかし、これはどこまでホントか分からない。とにかく体格からも目立つ人物であったようだ。
高虎は生涯において7人の主君に仕えた。そのことで後世、節操のない人物だとの評価がある。それに対して福田さんは別の見方をする。「主君を代えることを、渡り奉公というのですが、高虎の場合、それは裏切りではなく、仕える殿さまに対して見切りをつけた。その人物に対して見る目があったということです」
権力者がコロコロ変わる戦国時代、だれに付いたら出世できるか、それを自分で見定める必要があった。有能な主人を探すのは当然のこと。それに成功したのが高虎だというわけである。「高虎は主君をよく代えたために忠誠心がないといわれた。しかしそれは後世の評価。世の中が安定し、朱子学が広まってからのものです」と福田さん。
ここで伊賀上野城の歴史を簡単に振り返っておきたい。天正伊賀の乱の後、1585年(天正13)の秀吉の時代、筒井定次が現在の本丸東側に城を築く。この時、3層の天守が建てられる。これが上野城の始まりである。その後、定次は改易となる。1608年(慶長13)に伊予から高虎がやってきて上野城を改築する。このとき、家康から命じられたのは彦根城と共に西の大坂城に対峙できるほどの堅固な城づくり。そのため高虎は城の西側を拡張、5層の天守を持つ城を建てようとするが、1612年、伊賀を襲った台風のため、天守閣はあえなく倒壊してしまう。その後、大坂夏の陣で徳川が勝利。豊臣家が滅亡したため、この天守閣は再建されることはなかった……

続きは11月27日号の伊和新聞に掲載しています。
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