伊賀市・名張市 障害者団体が交流会
伊賀市の障害者福祉連盟「上野手をつなぐ育成会」と名張市身体障害者互助会「やまなみの会」合同の「障害者の自立・社会参加のための交流会」が1月18日、名張市総合福祉センター「ふれあい」で行われた。
冒頭、やまなみの会の耕野一仁会長が「伊賀市・名張市の福祉連盟や互助会は、昭和26年頃発足したが、当時は戦後復員してきた傷痍軍人の救済に行政が力を入れていた。時代と共に、身体・精神・知的障害者の認定に移り変わり、生活の保護に市・町は力を入れるようになってきた。今は団体の力が大切で、障害者が団体に加入し、市・町・県・国に働きかけて、個々の意見を反映する時代。要望だけでなく仲間同士の横の繋がりも大切。障害者手帳を持っている人に、スポーツ、文化活動、カラオケなど社会活動する機会を作っている。伊賀・名張の関係団体が情報交換し、団結のきっかけとしてこの研修会を企画した」と挨拶した。
講演の1番目は「障害者手帳交付の推移と障害者問題の現状と課題」について、名張市基幹相談支援センターの武藤誠介さんと元永篤志さんが講演した。
初めに武藤さんが▼「基幹相談支援センターの役割」について。地域における相談支援の中核的役割を担い、1つ目に障害の種類に関係なく、あらゆる問題に関して相談を受ける。2つ目に虐待防止と権利擁護。3つ目に成年後見制度の利用の促進。4つ目に3障害に対する情報提供と相談があり、地域において密接に障害に関わり、あらゆる相談が出来るところと説明。▼「障害者手帳交付の推移」については、令和5年度の障害者白書によると、日本全国の障害者数は、身体障害者436万人、知的障害者109万4千人、精神障害者614万8千人で、合計1160万2千人。日本人の10人に1人が何らかの障害を持っていることになる。名張市の手帳交付数は令和6年4月1日現在で、身体障害者3376人、知的障害者862人、精神障害者900人、合計5227人で、人口の7㌫に当たる。全国では5・9㌫なので少し多い様に思われるが、前市長の時代「福祉の理想郷」を掲げ施設展開した結果、障害をお持ちの方が名張市に多く引っ越して来られたことが、少し影響しているかと思われる。名張市の人口は減っているが、手帳交付者・自立支援医療受給者は増加している。▼「障害者問題の現状と課題」については、①「1人で生活する場合の課題」として、日常生活の支援不足・孤独感・医療アクセス・経済的負担をあげた。②「家族で生活する場合の課題」として、介護の負担・家庭内のストレス・支援の不均衡(母親が犠牲になる場合が多い)・経済的問題をあげた。以上の話を引き継いで、同じく基幹相談支援センターの元永さんが事例紹介を行った。
2番目は、名張市立図書館の山口浩司館長が「歴史から見る幕末期の藤堂藩 伊賀・名張について」の講演を行った。伊賀・名張の共通の歴史に関わることで、来年(2027年)のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟」であり、藤堂高吉も登場するであろうことから、幕末期の藤堂家に焦点を当てた。特に「戊辰戦争」における、藤堂藩が官軍に付いた精神的背景についての話しを、聴衆は興味津々で聴いていた。
講演の3番目は、伊賀市障害者福祉連盟の副会長で「上野手をつなぐ育成会」会長の吉輪康一さんによる「伊賀市障害者福祉連盟の現状と課題」。上野手をつなぐ育成会は、昭和30年に出来た知的障害者の組織。「子どもが知的障害の場合、親が障害者に代わって活動をしなければならない」と語り、活動のテーマは3つあり、1つ目は障害者福祉の充実に向けての活動。2つ目は障害を理解してもらい差別をなくす活動。3つ目は障害者相互の交流として、スポーツ大会等の活動と語った。また、伊賀市障害者福祉連盟は、上野・伊賀・島ヶ原・阿山・上野手をつなぐ育成会・阿山名賀保護者会の6つの組織で構成されているが、高齢化等で会員数の減少に直面している。また個人情報保護の関連で、障害者手帳を発行している国からの情報が入らない。口コミや知り合いを通じて探るしかない。「高齢化と会員減少で、役員を務める人がいなくなってきた。国から障害者団体助成金の交付を受けるにも、パソコン(Excel)での書類の作成は無理な場合がある。お金に関することで、大きな課題」と切実な課題を訴えた。
後は、障害を乗り越え自立して社会参加し、障害者仲間の為に尽力した人に与えられる東海テレビ「ひまわり賞」を昨年12月受賞した山根秀生さんによる「障害と自分の生き方について」の講演。
山根さんは乗り越えてきた幾つかの試練について話した。島根県と山口県の県境の山口県の村に生まれた山根さんは、1歳6ヶ月でポリオ(小児麻痺)に罹り歩けなくなった。田舎なので情報がなくワクチンを打っていなかった。幼稚園に入るのに歩けないと入園できないので、訓練でなんとか歩けるようになった。幼稚園と小学校はバスで通い中学校までの8㌔の自転車通学が次の試練だった。漕ぐのに力が入らない、立ち漕ぎでなんとか力が入ったので、全部立ち漕ぎをした。坂道なので往きは30分でも帰りは1時間以上かかった。工業高校で工業化学を選び製薬会社に就職して分析科学の仕事についた。しかし43歳で眼底出血のため左目を失明し退職。マッサージの学校に通ったこともあったが、片目での行動に慣れ、別の会社で分析化学の仕事に戻った。一方、中学校から卓球を始め、平成元年(1989年)、パラスポーツの前身である「第5回フェスピック神戸大会」に日本代表として出場し団体銀メダルを獲得。平成28年「2016希望郷いわて大会」の一般卓球の部で金メダルを獲得。試練と輝かしい活躍を話す山根さんの穏やかな語り口が会場を包んだ。山根さんは現在、三重県障がい者卓球協会副会長、名張市身体障害者互助会事務局長、書記、スポーツ文化担当部長を兼任している。