福井文右衛門知ってますか? 名張藤堂家邸で企画展
名張市丸之内の名張藤堂家邸で、企画展示「福井文右衛門」が開催されている。江戸時代初期の名張藤堂家伊勢領の初代代官として現在の松阪市に着任し、水不足に苦しむ領民の窮乏を見るに忍びず、禁断の神宮領内を通る水路を作って領民を救い、自らは責任を取り切腹。展示ではこれらの事績を9月24日まで、パネル展示で紹介している。
福井文右衛門(1596~1650年6月19日(慶安3年5月21日))は、名張藤堂家の伊勢代官として、名張藤堂家の領地である飯野・多気郡の領地を治めていた。この地方の用水はおおむね水量があったが、やや高台にある出間村は天水(雨水)に頼るしかなく、見るに忍びないほど村民は窮乏にあえいでいた。福井代官は新しい水路を引く決意を固めた。それには伊勢神宮所管の神服織機殿神社の境内を通すしかない。当時、神域は石1つ草1本動かすことは禁じられており、交渉しても断られるのは目に見えていた。そこで慶安3年5月20日の夜、代官は村民総出会いの上「話はつけたから、今夜中に神社境内を掘って水を流せ」と命じて水路を掘らせた。その結果、巾1㍍長さ220㍍の水路が夜を徹して完成し、水が勢いよく流れだした。村民たちの喜びは言うまでもなかった。ところが喜びを共にする福井代官の姿がない。村民たちが代官所に福井代官を探しに行くと、神域侵犯の罪を一身に背負って切腹して果てていた。文衛門の真意を知った村人は泣き叫んだという。彼は領主・藤堂高吉宛に自身の単独行動であることをしたためた文を、次席代官の岡勘平に預け、家族は伊勢河崎の問屋商人に預けていたが、その後子孫は鳥羽藩に仕えたという。水路のお陰で出間村の収穫が増え、新田も開発されて村は豊かになった。文衛門の遺骨は、約半年後に名張藤堂家の菩提寺である徳蓮院に納められ、昭和52年には十三重の塔と顕彰碑が建立された。松阪市では、今でも毎年追善法要が営まれており、400年前に作られた郷土民謡・松阪しょんがい音頭には文右衛門の物語が歌いこまれている。
展示は午前9時~午後5時まで、休館日は月曜日、木曜日と18・19日。入場料は一般200円、高校生100円。お問い合わせ先は、名張藤堂家邸(電話0595・63・0451)まで。