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いが再発見 No213 金石文研 新町・黒田橋周辺を調査

名張金石文研究会はこのほど名張川と宇陀川が合流する名張市の新町橋と黒田橋周辺にある水神碑や常夜灯、道標などを見て回った。7月30日(土)に3年ぶり、80回目の名張川納涼花火大会が行われる場所でもある。現在、付近では名張川の改修工事が進行中。黒田橋も新たに建て替えられる予定で、3年後の令和7年に辺りは黒田親水公園として生まれ変わり、風景が一変する。その暁には現在ある水神碑や道標などは一部移転を余儀なくさせられる運命にある。それに先立っての調査になった。
気象庁は梅雨明け宣言したが、この日はまるで逆。梅雨空で雨が降る中での金石文めぐりとなる。最初に行ったのが新町橋近くの愛宕神社。いちばん奥まったところに社。小ぶりである。その手前に常夜灯が1つ。高さは1・7㍍。「文政9年(1826年)とあり、木屋、油屋、松田屋などの字が3面に彫られています」と金石文にくわしい今西正己さん(68)の説明が入る。さらに解説が続く。「全体に赤みがかった石。これは名張では珍しいです。それに笠の部分は何らかの原因で黒く変色しています。それに比べ台座は四角形の白い石で、まったく別のもの。一体のものではありません」
この常夜灯はもともと背後にある愛宕山にあったものがここに移されたものだという。誰かが「そういえば台座が愛宕山に残っているのを見たことがある」と教えてくれる。
常夜灯なら2つあるはず。もう1つはどこに行ったのか、との声も聞こえる。神社の歴史によれば、愛宕神社信仰が盛んになったのは名張のまちを焼き尽くした宝永大火(1710年)以後のこと。当時の住民がもう火事はごめんだ、と翌年、京都・愛宕山から火伏の神さまを黒田の愛宕神社に勧請。それを各町に分祀、お互いに火事災害を防ごうとした。いまも町々に愛宕社があるのがその名残らしい。
けっきょく、愛宕神社は1908年(明治41)に宇流冨志禰神社に合祀されて今日にいたっている。だからここは分社となるのだ。そこからもう1つも同神社にあるのでは、という発想になる。もっともこれは行ってみなければわからない。
次は境内にはいる鳥居横にある常夜灯。これは大きい。高さ3㍍はあろうか。「太神宮」と刻んである。「これはお伊勢まいりに行く人たちのためのもの。元は初瀬街道にあったものです」と同会会長の松鹿昭二さん(79)。常夜灯といえば夜の暗い中、足元を照らすものだと思っていたが、松鹿さんは違うという。「伊勢へは朝4時や5時に出発する。暗いうちから歩くからどうしても灯りが必要になるのです」
常夜灯は文字通り夜の明かり取りだと思っていた。もちろん夜にも必要とされたはずだが、朝用に使われたとは知らなかった。今西さんが年号を調べる。「文化2(1805年)、山城屋、城下屋、奈良屋など寄進者の屋号が刻まれていますよ」
愛宕神社はもともと新町橋詰めにあり、その前にこの太神宮の常夜灯があった。それが移転させられて現在地になった……
続きは令和4年7月16日号の伊和新聞に掲載しています。
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