いが再発見 No224 金石文研 布生地区を調査
紅葉に染まる秋の一日、名張金石文研究会は市内東南部にある国津の杜(もり)・くにつふるさと館周辺にある寺社を訪ねた。40年前に発見された南北朝時代の年号が刻まれた日本で一番古い双仏石を再確認する一方で、現代につながる郷土の偉人たちの足跡もたどることができた。後年「吉田道」と呼ばれる道路を村人のため私財を投げうって作ろうとした吉田家の人たちを顕彰する碑に敬礼。カヤノキの新種、日本産のコツブガヤを世界に初めて紹介した森川均一博士の墓に手を合わせた。墓前で住職から世界的学者でありながら地元ではほとんど知られていない現状を聞かされ、会員からは思わず「名張の偉人集をまとめる必要があるのでは」との声が上がった。
くにつふるさと館を出て県道布生(ふのう)線に向かって下る道の右側2か所に磨崖石仏が見える。知らなければ通り過ぎてしまいそうだが、同会会員の今西正己さん(68)が解説してくれる。「右の摩崖仏は地蔵尊。左が五輪塔です。五輪塔には寛文8年(1668年)の年号が見えます。地蔵仏は室町末期あたりですかねえ」
だれが刻んだのか、名もない石工なのだろうが、その信仰心に思いをはせる。地蔵尊は風雪に耐えてだいぶいたんでいるが、それでも微笑みの表情は見て取れる。目立たずひっそりと鎮まっているのが好ましい。
その斜め向かい、バス停近くの道路わきに縦横1㍍ばかりの石碑がある。現在はバスが走る折戸川沿いの道路、通称吉田道の建設を発案、布生から下流の弁天橋まで全長6㌔を苦労の末、最後は私財をなげうって完成させた吉田多(もとむ=1864~1933)の顕彰碑である。昭和41年(1966年)建てられたとある。しかし、今から56年前のことで、近づいて読もうとするが風雪にさらされてよく読めない。当日同行した吉村和仁さん(69)たちの話、地元の中井道昭さんにより作られた資料を参考に吉田氏の業績をたどってみる。
実は吉田道には親子3代の思いがこもっている。婿(むこ)入りした多(もとむ)の義父は村の有力者。村長や県会議員を務め、村の発展は車の自由に通れる道を作ることだとの信念の持ち主。その義父の長年の思いを実行に移したのが婿の多だった。村会議員や郡会議員を務めながら地域を説得。開発に着手するが、洪水など自然災害や硬い岩盤に遭遇するなど難題が続出。工事の中断を余儀なくされる。やがて支持者も離れ、孤立を深めていく……
続きは令和4年11月19日号の伊和新聞に掲載しています。
※ご購読は名張市上八町1482 伊和新聞社 電話63-2355まで。定価月760円(郵送地区別途)、一部200円。