いが再発見 No211 筒井家の史実を探る(上)
名張市出身で昨年、唐招提寺の88世長老を退任した西山明彦(みょうげん)師(70)は現在、奈良市にある伝香寺の住職を務めるかたわら、境内にある幼稚園の園長として忙しい毎日を送っている。同寺は戦国武将、筒井順慶(1549~84)の菩提寺として知られる。順慶には「洞(ほら)ヶ峠」のコトワザがあり、日和見主義の典型的人物と喧伝されてきた。しかし、明彦住職は、あれは史実をねじ曲げた誤解だとしてその名誉回復に努めてきた。「全国筒井氏同族会」の結成にも力を貸し、83年の順慶400回忌法要には全国から210人の「筒井さん」を集めた。2回にわたり明彦師に筒井家にまつわる話を聞いた。
近鉄奈良駅から東へ10分ばかり。「やすらぎの道」沿い、奈良市最古の神社、率川(いさがわ)神社の隣が伝香寺である。明彦師はにこやかな表情で迎えてくれる。5年前、長老に電話取材したことがよみがえってくる。名張市長と当時、執事長だった明彦住職との間で実現した唐招提寺への女竹奉納のいきさつを聞くためだったが、用件は手短にと、かなり切り口上にいわれた。長老は忙しく、ストレスがたまるのだなあ、と思ったことが懐かしい。
今回訪ねたのは、順慶と菩提寺にまつわる話や、「全国筒井氏同族会」結成のいきさつなどが知りたかったからである。
順慶といえば、織田信長が討たれた本能寺の変後、対峙する明智光秀軍と秀吉軍が戦った山崎の合戦でどちらに加勢しようかと形勢をうかがった人物と昔、教わった。陣取った場所が洞ヶ峠。京都・南部と大阪・枚方の境にある峠である。もちろん行ったことはないが、そこから「どっちつかず、有利な方を見極める立場」から順慶の日和見主義というありがたくない言葉が生まれた。私はこれまでそれを信じてきたが、明彦住職によればそれはまったく違うというのである。
「1582年(天正10)6月2日に本能寺の変が起こり、同月10日に光秀は洞ヶ峠に陣を構えるのです。そのとき順慶は、光秀軍がいつ大和に攻めてくるかと籠城覚悟で大和郡山城にいたのですよ。だから史実としてはまったくのデタラメです」
順慶が日和見でなく、秀吉方に味方したという文書が残っている。光秀の使者が加勢同意の出陣を何度も求めたが、順慶は応じなかった。逆に秀吉に対して共に戦うという誓紙を送っている。この時の秀吉、織田信孝よりの書状が現存しているのだ。これは名張市の文化財で今も見ることができるはずだ。
慶の人物像が誤って伝えられた直接の原因は、江戸中期以降に次々と出版された軍記物にあるというのが、明彦住職の見解。食い詰め浪人たちが物語作家になり、生活のため、せっせと軍記ものを書きちらす。大衆受けするため、史実をねじまげ、オーバーに表現。それがまた人気を呼んだ。「父親をはじめ筒井氏親子3代の事跡をまとめた『和州(大和)諸将軍伝』が出版され、その中で初めて洞ヶ峠の日和見という話が出てきます。これが初出。史実よりも、物語として面白くおかしければいいという内容。それが受けたのです。当時はそういう風潮だったのでしょうか」……
続きは令和4年7月2日号の伊和新聞に掲載しています。
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