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いが再発見 No212 筒井家の史実を探る(下)

大和で勢力を誇った筒井家は没落の運命をたどる。順慶の跡を継いだ定次(1562~1615)は伊賀上野城に移り、20万石を与えられるが、家臣に訴えられ改易。本人は息子とともに切腹させられる。筒井家は断絶し、係累は離散の運命に遭う。筒井家が復活するのは幕末で、親戚筋の旗本、筒井政憲(まさのり=1778~1859)が外交などで大活躍する。これに力を得た各地の「隠れ筒井」が本名に戻り始めたのだ。それを知った西山明彦・伝香寺住職たちが順慶400年忌に合わせて、電話帳を頼りに「全国筒井氏同族会」の集合を呼びかけ、各地から210人の筒井さんが法要に駆け付けたのである。
「筒井順慶の洞ヶ峠」と書きながら、実は洞ヶ峠に行ったことはなかった。実際どんなところか訪ねてみる。近鉄・新田辺駅から車で行く。案内してくれるのは地元に住む小谷治郎さん(74)。20分ほど走ると現場に到着。4車線ある国道1号線で「八幡洞ヶ峠交差点」の標識が見える。しかし「ここが洞ヶ峠か」と感慨にふけることができないほど交通量が激しい。大阪方面へ向かう反対車線の向こうにカヤ葺き屋根が見える。「洞ヶ峠茶屋」の看板がかかっているが、廃屋同然の状態。来る前に八幡市商工観光課に電話して、洞ヶ峠を証明するものはないかと尋ねたが、「目立つものは何もありません。茶店も今年5月で閉めてしまいました。ぼたもちが有名でしたが」といわれたのを思い出す。
「国道の西側にかつての旧東高野街道があります。そこに行きましょう」と小谷さん。50㍍ほど行くと円福寺への入口。小谷さんが辺りの地形を説明してくれる。「これが東高野道。石清水八幡宮から高野山へ向かう道です。北は京都方面、南は大阪。北西に淀川があります。秀吉と光秀が対峙した『山崎の合戦』の現場も近いですよ」
JR東海道線・大山崎に行ったことがある。天王山周辺から俯瞰(ふかん)すると、桂川・木津川・宇治川の3河川が淀川に流れ込む合流地点であることが一目瞭然。洞ヶ峠も近い。周辺が古くから交通の要衝であることが素人にもよく分かる。
3河川の合流点に近く、京都と大阪を結ぶ洞ヶ峠が地形的に重要であることが、現場にきて実感できたことはよかった。
洞ヶ峠が気になって現場に行ってしまった。本題の筒井家の復興に戻る。幕末に筒井の名誉回復と大和の筒井関係社寺の保護に力を尽くした人が現れる。筒井政憲である。伝香寺を筒井家の菩提寺に定めたのは順慶の母、芳秀尼だが、一方で、彼女は自分のいとこの子どもを徳川家に小僧としていれていた。家はやがて7つに分かれるが、その中に旗本として徳川家に仕えた政憲がいた。昌平坂学問所に学び頭角を現し、出世を遂げる。江戸町奉行を20年にわたって務め、名奉行をうたわれる。幕末、ロシア使節、プチャーチンが長崎にくると交渉役を頼まれ、日露和親条約締結の立役者にもなるのである。
明彦住職に筒井家復興に果たした政憲の役割を具体的に聞いてみる。「春日大社南大門の左側に三角土地があります。20~30坪の広さでしょうか。そこに筒井家関係の灯篭を全部集めたのです。大和に筒井家ありということでしょうか。行ってみたら分かりますよ」
明彦師によれば、それまで山田とか田中とか名乗っていたのが、一斉に筒井姓に戻ったというのだ。
ふと庫裏の壁を見ると掛け軸がある。書は分からないので聞いてみる。「政憲さんの書です。ほかに何点か持っています」と明彦住職。政憲にだいぶ関心があるようである……

続きは令和4年7月9日号の伊和新聞に掲載しています。
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