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第294回 土芳忌

松尾芭蕉(1644~94年)の高弟で、蓑虫庵の庵主だった俳人・服部土芳(1657~1730年)の命日の1月18日、功績を偲ぶ「土芳忌」が西蓮寺(伊賀市長田)の墓前で営まれ、主催する芭蕉翁顕彰会の人々十数人が高弟に思いをはせた。
土芳は伊賀藤堂藩に仕える藩士であった。9歳のとき芭蕉から俳諧の手ほどきを受け、85年(貞亮2)20年ぶりに芭蕉に会った。「野ざらし紀行」の旅中の芭蕉を水口宿に追いかけ、2人は「旅寝の夜すがら語り合った」という。芭蕉はその時のことを「命ふたつ中に活けたる桜かな」と詠んだ。
それは「劇的な邂逅であった」と顕彰会の岡島久司会長(85)の話。3年後、官を辞し「蓑虫庵」を結んで隠棲。伊賀蕉門の中心人物となり、俳諧を友として生涯を独身で過ごした。芭蕉の俳論を伝える資料「三冊子(さんぞうし)」を著したが、極めて高い価値を有し、また句集の集大成「蕉翁句集」「蕉翁文集」をまとめた。顕彰会前会長の宮田正一さん(89)は「土芳がいなければ今の芭蕉はいなかったかもしれない」と言う。また「横日記」「庵日記」「蓑虫庵集」で当時の俳諧について価値の高い資料を残した。
土芳の墓は長らく所在が分からなかったが、1960年、境内の土中に横倒しに埋もれているのが発見され、西蓮寺により、故郷を一望する見晴らしの良い現在の墓所に安置された。山本純裕住職は「土芳は74歳で亡くなったが、70歳でこの墓を作った」と言う。墓石の戒名は読み難いが「坒中庵浄山土芳居士(さちゅうあんじょうざんどほうこじ)」と読める。宮田さんに「蓑虫」も「さちゅう」と読めると教えていただいた。
山本住職が読経を続ける中で、顕彰会の人々の心の籠った焼香が続いた。住職が「皆さんに参ってもらって土芳さんも喜んでいることでしょう」と話していた。
顕彰会はこの日の午後、伊賀市のハイトピア伊賀で、芭蕉翁記念館学芸員の高井悠子さんによる「『猿箕』編集と土芳の句」の講話を聴き、その後「土芳を偲ぶ俳句会」が開かれた。  記者には、土芳が何故、存命中に自らの手で墓碑を建てたかの疑問が解けないので資料を探した。学術論集「近世文藝6号・昭和36年5月号」の富山奏氏の論文「服部土芳生前自筆の墓碑」によると、「『蓑虫庵集』には、病に難渋し、余命なしと覚悟した様子が見える。自己の寿命は享保11(1726)年冬に70歳をもって終わると覚悟し、そこで自筆の墓碑を作る事情に至ったのであろう」とある。この論文には生涯を通して、あまり身体強健な方ではなかった土芳の姿が浮かび上がり、32歳で藩を致仕する動機も伺わせていて大変興味深く感じた。