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昭和30年⑥ 式を終え夫妻で赤目滝見物も

 名張市本町で書店を営み、江戸川乱歩生誕地碑建立の立役者となった岡村繁次郎は、新町の横山家から妻を迎えていた。横山家は明治27年に乱歩が生まれた借家の家主で、代々名張藤堂家に仕えた御典医の家柄。当時の当主文圭も医師を職業とし、医業は三男の正四郎が継いだ。正四郎は明治3年生まれ。医業のかたわら政界に身を投じ、名賀郡議、三重県議を経て大正4年3月の第12回総選挙に国民党から立候補した。つまり憲政会から初出馬した川崎克と全県1区の三重県選挙区で議席を争った仲だったが、初陣を飾った川崎とは明暗を分けた。同年9月の県議選で再選されたあとは、名張町から香落渓の名勝を経て奈良県奥宇陀地方に通じる曾爾街道の開設に力を注ぎ、8年4月に開通式を迎える。死去は昭和15年。娘の枝が岡村家に嫁いでおり、要するに正四郎は繁次郎の義父にあたった。
乱歩と岡村繁次郎
 令和4年春、江戸川乱歩が岡村繁次郎に宛てた書簡が名張市内で発見され、11月に市立図書館で展示された。市内在住で日本推理作家協会員の秋永正人さんは協会報11・12月号に「『ふるさと発見』七十年 乱歩と岡村繁次郎」を寄せ、書簡の内容を簡潔にまとめて全国発信した。
《発見された直筆書簡は、昭和三十六年(一九六一)乱歩が紫綬褒章を受賞した際、繁次郎氏がお祝いを送った返礼の手紙で、受賞祝賀会に触れ「軽微な脳出血で、長く立っているのが一苦労」「なるべく無責任にノンビリ暮らしたい」「あなたはお丈夫でうらやましい」と素直な感情が吐露されている》
岡村が乱歩の生家を知った経緯は知られていなかったが、秋永さんは岡村が残した覚え書きにもとづいてこう記している。
 《昭和四年(一九二九)に妻の父、横山正四郎(前述の辻せきさんの弟にあたる)から、乱歩は横山家裏の長屋で生まれたことを聞かされ驚いたこと、この奇縁をなんとかモノにしたいが、むずかしいだろうとあきらめていたこと、昭和二十七年名張に乱歩来たるの報を聞いて奮い立ち、乱歩に会いに行こうと決意したくだりなどは、晩年寡黙であった繁次郎氏の赤裸々な告白といった趣がある》
意を決して生家跡へ案内
 岡村の「決意」は次男の成二が私家版随筆集『くさぐさのこと』(平成25年)収録の「幻影城」でも回顧している。成二は昭和10年生まれ。乱歩が川崎秀二の選挙応援に訪れたときは名張高校の1年生だったが、その演説会当日のこと。
 《当日の夕方になって、これまでそういう所へ顔を出した験しの無い父親が、何やらオズオズ、といった風情で私の前に現われ、思いも寄らない事を告げたのである。
 「お前に相談があるのや。実は、わしは乱歩さんが生まれた場所を知ってるんやが、それを教えに行ったもんやろか、どうやろ? お前どう思うか?」
「なに? お父さん、それホンマのこと?」
[略]
 横山正四郎が国民党から立候補したのは、大正四年の総選挙だが、同時に対立する憲政党から出馬したのは他ならぬ川崎秀二さんの厳父川崎克さんで、選挙は両者の一騎打ちとなり、激戦の末正四郎は苦杯を嘗めた。
 その後正四郎が再び国政に向かうことは無かったが、選挙のしこりは根強く残り、我々子孫の間に、「川崎」と聞くと、条件反射的に抵抗感が湧く雰囲気があったのは無理からぬ話ではある。当夜父親が、乱歩の件が有るにも拘わらず、川崎さんの演説会に行くのを変に尻込みした理由の一つは、その辺りにあったと考えられる。しかし、他方で江戸川乱歩に、この取って置きの秘密を明かしたい父親の気持ちも亦、私には否応無しに共感できた。
「お父さん、それって、乱歩さんは知ってるの? 知らへんの?」
「いや、はっきりした場所は知らん筈や。せやけど、今頃教えに行って、却って迷惑がられてもなぁ」
「そんな事あらへん。そら、乱歩さん大喜びするって、行って教えたり、教えたり」
 面白がって私が尻を叩くと、逡巡していた父親はようやく意を決して、会場の宇流冨志禰神社、通称〝お春日はん〟へ出掛けて行った》
碑が生んだ新たなゆかり
 ほぼ無縁だった名張と乱歩のゆかりを深めたのが川崎克と秀二の父子だったとすれば、乱歩に生家の場所を教えて生誕地碑の建立にこぎつけ、新たなゆかりを生み出したのは岡村繁次郎と成二の親子だったといっていいだろう。その繁次郎は昭和51年6月18日、満81歳で世を去った。
 生誕地碑には「幻影城」という乱歩の書が刻まれているが、これは乱歩が昭和26年に刊行した探偵小説評論集の書名だ。碑に採用するよう提案したのも成二で、除幕前年の29年6月ごろ繁次郎から《生誕碑の前面に入れる文句とデザインについての相談》を受けたという。
 《これに対し、私が即座に脳裡に浮かべたのは、『幻影城』の三文字である》《事情に疎い父親は、当初難色を示したがやがて納得し、早速乱歩に揮毫を依頼したところ、程なく和紙に大きく、雄渾に書かれた『幻影城』が届けられた》
 成二は家業の書店を継ぎ、市議会議員も務めたが、昭和58年に名古屋市へ移住、平成27年11月に死去した。
 生誕地碑は昭和30年11月3日に除幕式を迎え、碑が設置された桝田医院の狭い庭に100人を超える関係者が集った。伊和新聞は当日発行の紙面で式の内容を詳しく予告し、5日夕刻まで滞在して赤目滝や香落渓に足を運んだ乱歩夫妻の予定も伝えている。

令和5年9月9日付伊和新聞掲載

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