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天正伊賀の乱 城攻め用の城があった 皇學館大ふるさと講座

名張市生涯学習センター主催の令和5年度皇學館大学ふるさと講座「天正伊賀の乱と伊賀の中世城館」が2月18日、同市防災センター(鴻之台)で皇學館大学非常勤講師の竹田憲治さんを講師として開催された。第2次天正伊賀の乱では数万人(諸説あり)の織田信長軍に攻められ、伊賀衆一揆の奮闘も空しく約3万人が殺され、全て焼き尽くされ平定された「天正伊賀の乱」は市民の関心も高く定員80人の予約は、すぐに埋まったという。
この日の竹田講師の講義は、城の構造や大きさが分かる地図と、当時の山城における戦いを記述した織田信雄の家臣の「小川新九郎覚書」が併せて解説され、リアルな戦を思い起こすのが容易であった。
戦国時代末(1570年代後半~1580年代)は、タテ社会の戦国大名(織田、徳川、武田、上杉、北条、毛利……)と、大きな大名のいない権力の空白地としてヨコ社会の一揆的結合(伊賀、甲賀、南山城、北伊勢、東山内、紀伊)の両方向の社会構成があり、タテ社会に併呑される課程の軋轢の時代であった。これは寺社勢力と武家との対立にも言えることだという。この時代には付城(つけしろ)戦の発明があった。攻撃目標の城を攻略するために、それを取りまく小さな城(砦)を築き、そこを拠点として攻撃したのだ。
第1次天正伊賀の乱(天正7年=1579)において「おたげの城攻撃」があり、信雄軍は付城の国見城(伊賀市国見付近)を拠点に、伊賀側の小竹城を攻めた。小竹城は現在の伊賀市種生付近。小川新九郎は「おたげという城を攻めた。周囲を焼き払った。敵が多く攻めてきた。両方とも押したり押し返したりしたが敵も手負いとなり、我々も手負いとなった」と記述している。
第2次天正伊賀の乱(天正9年=1581)では織田軍は四方から伊賀に攻め寄った。名張では最後の滝野城(柏原城)の戦が有名だが、名張近辺では伊賀方の青蓮寺城(ぶどう組合案内所の南付近)を攻めるのに、愛宕山城(百合が丘9番町付近)と上出城(青蓮寺の南付近)が付城として築城されていたことが紹介された。また、戦いの描写ではないが下小波田の瀧川氏城と桜町中将城は、信長の居城ではなかったか?との紹介もあった。
第3次天正伊賀の乱(天正10年=1582)は本能寺の変の後、信雄勢が撤退し伊賀の城は空城になった。そこに伊賀牢人が入城し、再入城しようとした信雄家臣と戦いとなった。「たきのが城」(滝野城=柏原城)での戦闘では、琴平古墳が付城として利用された。小川新九郎は「伊賀の者は忍び夜討が上手なので、我々も陣所を厳しく用心し、堀を掘り土井をつき、塀をかけ柵をつくり裏と表に櫓を立てた。その外に敵の堀際に竹束をつけ、見張りを置いた。案の定、敵は夜討をかけて来たが、こちらも固く守った」と前線の厳しさを書いている。第3次天正伊賀の乱の際、伊賀の牢人集が攻めた空城は近江国から伊賀に入った所、山城の國から伊賀に入った木津川付近、大和国から入った名張などであり、それから分かることは第2次天正伊賀の乱で伊賀衆は全滅したわけではなく、近隣の國に逃げていたことが分かった。
講座終了後、講師の竹田さんに質問をした。「第2次天正伊賀の乱の終わりに、滝野城(柏原城)に籠城した伊賀勢と、織田軍を仲介して和睦させた猿楽師がいたが、緊迫した戦場で一介の芸人がそのような働きをするのは可能であったのか?」また「伊賀勢は籠城して兵糧が無くなり、そのまま放っておいても織田勢が勝つのは分かっているのに、和睦に応じたのは何故か?」それに対して竹田講師は「当時の戦場の現場は、空間的にも時間的にもキチキチに隙間なく攻め立てるのではなく、結構のんびりしていたのです。だから猿楽師の仲介も余裕を持ってできたと思います。但し、猿楽師が仲介したというのは後から書かれた話なので、本当かどうかは別問題です」と応えてくれた。身近で地形も良く分かる土地での戦の描写は、リアリティがあり想像が掻き立てられた。伊賀・名張は山城が多く、歴史的事績としても観光の資源としても可能性は高く、情報発信をこれからどうするかが課題と感じた。