昭和30年④ ほぼ無縁の地に乱歩生誕地碑

今年(令和5年)は江戸川乱歩の作家デビュー100年にあたる。9月には関東大震災が発生することになる大正12年、海外探偵小説の紹介に特色を見せていた雑誌「新青年」4月号に短編小説「二銭銅貨」を発表したのが乱歩の初舞台だった。日本で最初の専業探偵作家として名乗りをあげ、昭和初年からブームになった大衆文学の世界でも花形作家として広範な読者を獲得した乱歩は、129年前の明治27年10月、名張郡名張町新町の借家に誕生した。とはいえ役人だった父親がたまたま赴任した土地に過ぎず、翌年6月には一家で鈴鹿郡亀山町へ転居してしまったから、名張は乱歩にほぼ無縁の地だったというしかない。しかし昭和27年9月、58歳になっていた乱歩は代議士川崎秀二の選挙応援で名張町を訪れて生家跡を知り、それが契機となって30年11月には生誕地碑が除幕式を迎えるに至った。
大学在学中に川崎克を知る
江戸川乱歩、本名でいえば平井太郎は、名張町と亀山町に住んだあと名古屋市で幼少年期を過ごした。旧制中学卒業直後に父親が事業に失敗したせいで働きながら大学を卒業したが、在学中の勤めのひとつに川崎克が主宰する自治新聞の編集手伝いがあった。
川崎は明治13年、伊賀上野生まれ。乱歩より14歳年上で、少年時代から政治家として立つことを志していた。自治新聞は大正3年11月に東京で創刊。乱歩はその年9月ごろ、父親の郡役所時代の部下から川崎を紹介され、学業のかたわら取材から挿絵まで自治新聞の編集に腕をふるった。
しかし12月25日に衆議院が解散すると川崎は上野町に帰って選挙準備に入り、翌4年3月25日の総選挙で初陣を飾る。自治新聞は第4号を最後に廃刊となったが、川崎はその後も乱歩の面倒を見つづけ、次男秀二と父子2代にわたる乱歩との深い交流が、ほぼ無縁だった乱歩と名張のゆかりにも変化をもたらしていった。
令和5年8月26日付伊和新聞掲載
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