昭和30年⑧ 新春随想が最後のメッセージ

昭和30年に生誕地碑が除幕されたあとも、江戸川乱歩と名張市との関わりは途切れることがなかった。川崎秀二は33年5月の第28回衆議院議員選挙で同じく旧上野市を本拠とする中井徳次郎と激戦をくりひろげ、定員5人の三重1区で中井は5万1431票を得て4位、川崎は4万8984票で最下位当選という結果に甘んじた。乱歩はこのときも選挙応援に駆けつけたが、名張入りはこれが最後となる。ちなみに記しておくと、中井は28年4月の第26回衆院選に旧上野市長の任期途中で出馬して初当選を果たし、以後、川崎対中井という戦いの構図はそれぞれの後継者の代まで引き継がれてゆく。
東京名張人会結成の報告も
江戸川乱歩と伊和新聞のゆかりにも触れておこう。
川崎秀二の選挙応援でふるさと発見を果たした翌年の昭和28年、乱歩は伊和新聞6月25日号に「〝陰獣〟を書いた年」を寄稿した。代表作「陰獣」が評判を呼んだ昭和3年を回顧した短い随筆だ。
生誕地碑が除幕された30年には、11月4日に名張高校で行った講演「探偵小説雑話」が7日から12月1日まで7回にわたって掲載されている。
32年1月1日号には「東京名張人会」を発表。前年の2月、東京在住の名張出身者20人あまりが出席して東京名張人会が結成され、会長に大森正夫、世話役に松岡孝夫、顧問には野口栄三郎と乱歩が選ばれた。11月には会員が経営する虎ノ門の大久保旅館で第2回が催され、《旧藩主でラジオ三重の支配人をやっておられる藤堂高伸さんがときどき用務で上京され、大久保旅館に泊られたこともあるというので次の会は藤堂さんが上京された折に、旧藩主を囲んで歓談する会にしようではないかということで別れた》という。
5回目の訪問機会は訪れず
昭和36年1月1日号には新春随想「名張あれこれ」が寄せられたが、これが伊和新聞の紙面を通じて名張市民に宛てた最後のメッセージとなった。生誕地碑関係者の消息、伊勢湾台風の被害など、ふるさと名張をつねに気にかけていたことがうかがえる内容だ。
昭和34年9月の伊勢湾台風で桝田医院は床上浸水の被害を受け、復興に際して生誕地碑のある中庭に住居が増築されたため、碑は狭い路地を隔てて建つ入院病棟の中庭に移設された。入院病棟の土地建物が桝田家から名張市に寄贈され、跡地に乱歩生誕地碑広場が整備されるのは平成21年のことになる。
「名張あれこれ」の結びには《機会を見て、名張市をお訪ねしたいと楽しみにしている次第である》とあるが、晩年の乱歩は高血圧、動脈硬化、蓄膿症に悩まされ、さらにはパーキンソン病で外出もままならない状態に陥ったため、昭和10年代前半、27年9月、30年11月、33年5月につづく5回目の名張訪問はついに実現しなかった。
死去は昭和40年7月28日。前日昼に池袋の自宅で倒れ、医師が来診して東京大学病院に翌日の入院を手配したが、28日午前に病状が急変して危篤状態となり、午後4時11分、脳出血で世を去った。
8月1日、青山斎場で日本推理作家協会葬が営まれ、名張市からは北田藤太郎と岡村繁次郎が列席した。岡村との交友も途切れずにつづいており、《毎年、季節になると、好んだワカサギの甘露煮が欠かさず送られて来たのも、今は遥かな思い出となった》と次男の成二は乱歩の思い出を伝えている。
写真=昭和30年に除幕された生誕地碑
令和5年9月23日付伊和新聞掲載
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