昭和32年(4) 木材の輸送は鉄路から陸路へ

古来、名張は森林資源の供給地だった。奈良に都があった時代、名張で伐採された木材は川を利用する水運で木津へ、そこから先は陸路で都へ運ばれ、宮殿や寺院などの建築に使用された。名張駅前にある万葉歌碑の歌が詠まれてから60年後の天平勝宝4年、西暦752年には東大寺の大仏が完成して開眼供養が営まれたが、その3年後、孝謙天皇が宇陀川から名張川にかけての左岸に位置する広大な森林を東大寺に寄進し、一帯は板蠅の杣と呼ばれるようになる。杣は木材を伐り出す山の意で、東大寺は天皇から用材を独占して調達できる場を与えられ、これが中世にかけて黒田庄という荘園に発展してゆく。近代に入っても製材など関連産業は隆盛を見たが、運搬手段は時代とともに移り変わった。大正期に伊賀鉄道が開通すると鉄路が主流となり、昭和32年には陸路への移行が本格化する。
伊賀鉄道に名張駅
昭和32年7月8日、黒田に名張木材市場が開設された。もっとも当時の伊和新聞にそれを報じる記事は見当たらない。名張市役所発行の「名張市10年のあゆみ」に《7・8 黒田に木材市場新設(もとは木屋町)》とあるのを根拠に記述を進めるが、木屋町という町名は製材工場などが多く立地していたことに由来する。町の成立は大正13年。きっかけはその2年前の伊賀鉄道開通だった。
伊賀鉄道は大正5年に開業した。関西本線の上野駅連絡所(現在の伊賀上野駅)から上野町駅(現在の上野市駅)までの区間で運行し、11年に上野町駅から名張駅までが延伸された。名張駅は昭和5年、参宮急行電鉄(現在の近鉄)が開通して新たに名張駅が開設されたため西名張駅と改称されるが、この西名張駅を含む地域が木屋町だった。
石の鳥居の西畑のまんなか
北田藤太郎が伊賀鉄道の名張駅、のちの近鉄伊賀線西名張駅について回顧録『ある人間史』に記したところを引いておこう。
《名張駅はいまの西名張、石の鳥居からまっすぐ西に進んで、産業道路を突きあたった地点にあった。
終点名張駅がこの地点に計画されたのに対し、八町の入口を終点にせよとの運動が町民の間から起こった。
この先頭に立ったのは公正会という若手の政治結社で、川北清一郎青年が指導者であった。八町は初瀬街道筋の入口で、ここを終点にすれば町全体が繁盛するという考え方であった。一理のある発想で、町民の空気が盛り上がったが、会社の方針を変更させることは遂に出来なかった。
名張駅の開設される地点は畑のどまん中で、町に通じる道もなく、こんな辺ぴなところへ駅をつくってもという懸念が漠然と町民の心の中にあったようだ》
終着駅開設で急速に変貌
畑のどまんなか、道もない場所に開設された名張駅の周辺は急速に変貌した。北田は駅前通りの形成過程をこう記録している。
《中町の石の鳥居から駅まで開通した一筋の広い道、きのうまで桑畑だったこの通りに急激に家が建ちはじめた。駅前に一番乗りして駅前開発の第一ページを飾ったのは上野自動車株式会社名張営業所(前には伊山自動車といい、上野・曽爾・太郎生までの定期乗合バスを運行していた)、すぐ駅前にあり、その南隣に喜多藤支店があったわけだ。向かい側に丸通運送店ができた。四つ角の生田住設のところに大正運送店ができ、釜本医院のところに大正屋旅館が店を開いた。このほかはまだ一面の空地だった。
鉄道開通の翌年、いまの高北国富寮のところに寿座という芝居小屋ができ、その隣りに三慢堂という表具屋が開店した。自動車屋ができるし、橋亀という旅館(寺新支店となる)ができるし、急に賑やかになり、だんだん駅前通りらしい体裁をととのえるようになった》
大正13年に開設された伊賀鉄道名張駅の周辺は木材の集散拠点として関連の店舗や工場が集中し、周囲の空き地は材木の保管場所として使用された。伊賀鉄道は合併や統合を経て昭和19年に近鉄伊賀線となるが、西名張駅は一貫して木材集散の要として機能した。
しかしこの年、名張木材市場が黒田に新設される4か月前の3月8日付伊和新聞は、全国的な貨車不足から木材の出荷が滞り、西名張駅には3000㌧の滞貨があると伝える。鉄路から陸路へという運送手段の移行がすぐそこまで迫っていると実感させる記事だ。
7年後には西名張駅廃止
貨車からトラックへという変化は急速に進み、この年から7年後の昭和39年には伊賀線の伊賀神戸・西名張駅間が廃止される。そして59年後の現在、物流業界はトラックドライバーのいわゆる2025年問題に揺れ、鉄路の見直しなど新たな方向性の模索がつづく。
写真=昭和32年7月8日に開設された黒田の名張木材市場
令和5年11月25日付伊和新聞掲載
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