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昭和29年④ 喜びにあふれ式典や仮装行列

 昭和29年4月26日、前日の名張市長選挙で無投票当選を果たした北田藤太郎が初登庁した。伊和新聞は「北田市長の第一声」として「市を少しでも強固なものにするには、今日の社会情勢では少くとも五万の人口が必要で(略)このためには地域の拡大を目途とする策定も必要」との談話を報じた。当時、伊賀各地で合併協議が進められており、とくに古山村と神戸村では名張市に加わるかどうかの論争が村を二分していた。だが結局は2村とも上野市に編入され、古山村南と神戸村上庄田の2集落だけが昭和32年に名張市に所属する結果となった。北田が目指した市域の拡大は画餅に帰した。
 名張市役所開庁式、市長選挙のあとには市制祝賀行事が控えていた。日程は5月21日から23日まで。メイン行事の祝賀式典は22日、自治庁長官代理、衆参両院議員ら来賓も含めて700人あまりが出席し、名張小学校講堂で催された。伊和新聞はこう伝える。
 《三万一千余の市民の喜びの中に、観光都名張市の市制祝賀式は二十二日午前十一時小雨降る空に打上花火のひびきが、緑の青葉をふるわせて、万国旗にかざられた名張小学校講堂に盛大にとり行われた》
 式典は1時間半にわたって行われ、午後0時半には市内各事業所の自動車によるパレードが出発した。まだ自動車が珍しかった時代だ。先頭はS・Y商会、次が長瀬鉄工所、高北農機、さらに豊後町、元町、木屋町、新町から合計十数台が登場して、南は比奈知地区、北は西原方面と6時間あまりをかけて市内各地を大行進した。
初日の行事はこう報じられている。
 《▽第一日目、二十一日金曜日=運悪く朝から雨に見舞われて人出は低調であった。市内各小・中学校生徒たちが各新聞社より贈られた小旗を振って旗行列がおこなわれた。十一時ごろ赤目中学校の一番乗りにつづいて各小・中学校生徒は市役所横の広場に集まって、バルコニーの上に立った北田市長に「名張市バンザイ」を三唱、市長からも「みなさんの学校も栄えるように」との言葉を受けて市中行進をつづけて行った》
最終日には──
 《▽第三日目、二十三日日曜日=祝賀会の最終日は午後一時半ころ各市内の趣向を生かした仮装行列がそれぞれの準備場所から出発、歌いながら、おどりながらの景気よい行列があちこちの道々にくりひろげられ見物する市民をどっとわかせたが、午後一時半ごろ市役所前の道路において混雑する人の波によっておじいさんが脳貧血で倒れるというさわぎまで引起した》
国定忠治も泣いて喜んだ
 北田藤太郎は回顧録『ある人間史』にこんな思い出を記した。
 《市長が正式に決まって、五月二十二日に名張小学校講堂で市制発足記念式典が挙げられることになった。その前日の二十一日、市民の祝賀行事がはじまった。学童や一般市民は旗行列や提灯行列、仮装行列で、どっと町にあふれ出た。町内ごとに趣向をこらした行列が次から次へと市役所に繰り込む。私は玄関に立ってそれを迎えた。どの顔も明るかった。
 行列の中から仮装の国定忠治が飛び出して、「市長さん、おめでとう、おめでとう」と繰り返しながら、私に握手をしに来た。その顔をみると、涙のあとが両頬を流れて、メーキャップの白粉を消していた。泣いて喜んでくれているのである。私の胸にもジーンとあついものがこみあげた》
町村合併による新しい市の誕生は全国で祝福されていた。9月23日付伊和新聞は「〝名張小唄〟も公開」としてこんな記事を掲げている。
 《自治庁では最近町村合併で全国で百四十余の新市が誕生しているので、各新生市の風物、観光、特産物などを紹介する意味で九月二十八日から十月三日まで東京三越で「自治振興展」を開催することになっているが、名張市では同展に赤目四十八滝香落渓の景勝地写真および北田市長が推せんするミス・名張写真を出陳するほか組紐、ヒノナ漬、茶などの特産品も出品、また名張芸妓による(八名参加)〝名張小唄〟〝新名張節〟の唄と踊りも公開大いに宣伝につとめることになった》
 名張市初の本格的なシティプロモーションといったところか。

令和5年6月24日付伊和新聞掲載

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