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昭和32年(2) 伊和新聞が週2回から日刊へ

 新聞の凋落が著しい。日本新聞協会によれば、昨年10月時点のスポーツ紙を除く新聞の発行部数は2869万4915部。前年より196万部の減となった。10年前に比べると1502万部も減っている。もっとも多かった平成9年から25年で4割以上もの減少を見たという。新聞離れの大きな要因がインターネットの普及による社会のデジタル化にあることはいうまでもないが、そうした流れは新聞のみにとどまらず、10月には県南部の紀北町で自治体と地域が協力して回覧板デジタル化の社会実験を開始した。県内初の試みというが、同様の動きは急速に広がると予想され、紙媒体が情報伝達ツールの王者だった時代は過ぎ去りつつある。しかし名張市発足4年目の昭和32年には、日々の報道を担っていたのは新聞とラジオだった。伊和新聞はその年、日刊の地方紙として新たな歩みを始めた。
大正15年に創刊号
 伊和新聞は97年前、大正15年に岡山実が創刊した。岡山は明治32年、阿山郡山田村に生まれ、名張町に移って新愛知(中日新聞の前身の1社)の販売と取材を手がけたあと、印刷業と同時に新聞発行を始めた。伊和新聞は創刊号以来、県境を挟んだ伊賀と大和の一部をエリアとする地方紙として報道や提言などをつづけていた。
 『名張市史 下巻』(昭和36年、名張地方史研究会)から地方紙の動向を拾っておくと、昭和初年には新町の横山正四郎が民衆報を創刊した。横山は連載14回で江戸川乱歩生誕地碑建立の立役者となった岡村繁次郎の義父として紹介した人物。医業のかたわら政治にも携わり、いっぽうで自宅前に編集室を置いて日刊の地方紙発行にも手を染めたものの、経営を維持できず1年ほどで廃刊に至った。
 伊和新聞は《戦時中の企業整備で一時中絶に至ったが、戦後の昭和22年復刊、現在に至っている。販路は伊賀および大和宇陀郡に及んでおり、伊和の紙名も〝伊賀と大和〟に由来している》とされ、名張町では戦後まもなく伊賀プレス、伊賀時事新聞、のちに三奈新聞、名賀新聞などが発刊されたが、《いずれも経営難で消えていった》という。
終戦直後の復刊から10年
 昭和32年3月1日、日刊がスタートした日の伊和新聞は社説「日刊実施に際して」で戦後の歩みを振り返っている。
 《戦時下の統制のため長いあいだ休業を余儀なくされていた本社が、終戦後いち早く復興に立上がり、第一着手をまず印刷工場の再興からかかった。
 終戦直後の物資不足と経済的混乱の中にあって、貧弱ながら最低規模の印刷設備が出来上ると同時に、本紙を復刊した。
 それから、まる十年の月日がたつ。
 復刊の最初は週刊であった。五年めの二十七年に週二回刊にした。そしてさらに五年目の今日、いよいよ日刊を実施したのである。しかしながら、日刊は本紙としてはいま急に思いついたことではない。休刊以前には日刊をやっていたこともあり、復刊にあたっては、そもそもの最初から日刊を目標としていたのである。だが、心に念じながらもそれを実現するには、けっきょく十年の月日が必要であった》
 全国紙の地方版には求め得ない役割を果たすべく日刊化したといい、「郷土紙の使命」をこう述べている。
 《現在の日刊紙はいずれも県版をもっており、地方的通信は一応これですまされているように見えるが、郷土の人々は郷土のことについては、日刊紙の地方版以上に何かを求めているのは事実であり、本誌としてはこのプラス・アルファが何であるかに十分意を用いて郷土紙の使命をよりよく果したいと念願している》
 日刊化に伴い、サイズを全国紙と同じブランケット判から半分のタブロイド判に縮小して発行がつづいたが、編集や経営などに無理があったのか、日刊は翌年7月で終わりを告げ、ブランケット判週2回刊に戻ってしまう。
川崎克夫人が思い出語る
 日刊で紙面が増えたため取材記事以外の企画も多彩になった。ここには「日曜随想」というコーナーの随筆から一部を引用する。名張市ではなく上野市の話題となる。
 上野市出身の代議士川崎克が伊賀上野城の天守閣を建設してから88年が経過し、10月には公益財団法人伊賀文化産業協会が88の米寿を記念したエッセー集『私の伊賀上野城』を発行したが、克の未亡人康子が当時の思い出を語った一篇だ。

令和5年11月11日付伊和新聞掲載

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