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昭和32年(3) 名張駅前に夫を思う万葉歌碑

 名張市平尾の近鉄名張駅西口。ロータリー内のコインパーキングを背にして1基の石碑が立つ。碑面には奈良時代の歌集『万葉集』に収録された歌が刻まれている。
当麻真人麿の妻の作る歌
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
 持統天皇6年、西暦692年の3月6日から20日まで天皇は飛鳥浄御原宮をあとに伊賀、伊勢、志摩に行幸したが、それに随行した当麻真人麿という官吏の妻が旅の空の夫を思って詠んだ一首。市文化財調査委員を中心に組織された万葉歌碑建設実行委員会が準備を進め、市民から浄財を募って建碑に漕ぎつけた。仙台石を使用し、高さ約6尺(182㌢)。揮毫は鈴鹿市出身の歌人で国文学者の佐佐木信綱。昭和32年3月29日に設置され、除幕式は駅前の桜がほころび始めた4月8日に営まれた。
豊永徳之助が提唱
 近鉄名張駅前の万葉歌碑は昭和30年の江戸川乱歩生誕地碑につづく名張市2基目の文学碑となった。乱歩の碑が岡村繁次郎ら民間の尽力で実現したのに対し、万葉歌碑は行政関係者の主導で建立されたという印象が強い。万葉歌碑建設実行委員会の会長は市長の北田藤太郎だったし、歌碑の構想を打ち出して具体化に導いたのは市文化財調査委員会の会長を務めていた豊永徳之助だった。
 除幕式前日の4月7日付伊和新聞は座談会「建碑を語る」を掲載し、建設実行委員会のメンバーがさまざまなエピソードを語っているが、豊永はこんなふうに経緯を説明する。
 「私が会長を務める市文化財調査委員会の席上で、夏見廃寺跡の顕彰と万葉歌碑の建立をやろうじゃないかとの口火を切りました。吉田静男さんなんかも前々からそういう抱負をもっておられたし、話はすぐ棟が上がりました」
 委員の一人で市議会議員だった吉田静男はこう振り返る。
 「僕は万葉歌碑のことについては若い時からの念願で、場所としては新町橋の橋詰(黒田橋との交点)が最も適当と考えていました。街道筋という意味で最も歌意に添うと思ったのです」
菊山当年男も歌碑を構想
 座談会には古伊賀を復興した陶芸家で俳人芭蕉の研究者、さらに歌人としても知られた上野市の菊山当年男がゲストとして出席している。菊山はかつて名張に万葉歌碑を建立すべく奔走したことがあり、今回の建碑の動きを知って伊和新聞にその思い出を投稿した縁で招かれたのだが、30年ほど前、『万葉集』にもとづいて伊賀の地理を研究していたとき歌碑建立を思いつき、師匠の歌人斎藤茂吉に揮毫を依頼した。
 「すると数日して先生から、引き受けた、石の寸法を知らせ、とのご返事があったので欣喜雀躍して名張へ飛んで行き、義兄の関本梁村の手引きで春日神社下の二文字屋さんにちょうどいい形の石の選択を頼んだのですが、比奈知川の川底から引き上げるとのことで、なかなか石が上がって来ず、催促かたがた数回名張へ足を運んで、建設地も探し歩きました。そのあげく、歌意を汲んで新町橋の西詰の橋畔の空地が最もふさわしいと独り決めして、付近で聞いてみると町有地とのこと。しめたと思って役場へ飛んでいきました」
 しかし名張町長には会えず、建碑の構想も頓挫してしまった。注文した石は「今でも私の家の庭の真ん中に大きい姿をさらしていますよ」という。当時の町長は安倍多計志で、「あとで聞きましたら万葉集がどうだこうだなど牛の脛に蚊が止まったほどの関心もなかったし、ひょっとしたらどっさり寄付でもふっかけてくる魂胆じゃないかと疑ったくらいが関の山だったかもしれないぞ、とのことでした」。
 以来ほぼ30年、前年には一ノ井の松明調進行事と夏見廃寺跡が市文化財に指定されるなど、新生名張市は文化行政にも徐々に目を向け始めていた。

令和5年11月18日付伊和新聞掲載

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