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昭和30年⑦ 途中下車して探し歩いた生家

 生誕地碑除幕式翌日の昭和30年11月4日、江戸川乱歩は名張市上八町の伊和新聞社を訪れ、社長の岡山実らと歓談して取材にも応じた。記事は7日付紙面に「生家もとめて/来たこともある/本社来訪の乱歩氏語る」として掲載された。28年1月発表の「ふるさと発見記」には《名張で生れたことはよく知っているので、随筆などにも、その事を一、二度書いたし、十数年以前大阪名古屋間の電車がひけて、名張町に駅ができたと聞いたときに、一度生れた土地が見たくて、旅行の途次、名張に下車して、町を歩いて見たこともあるが、知りあいもないまま、生れた場所を確かめることもなくして終った》とあり、初の名張訪問が十数年以前、つまり昭和10年代前半のこととされていたが、伊和新聞の談話では昭和10年ごろとなっている。乱歩が初めて名張駅に降り立ったのはいつだったのか。
伊和新聞社で歓談
 江戸川乱歩は明治27年10月に生まれ、翌年6月には父親の転勤で亀山町に転居した。したがって名張町のことはまったく記憶しておらず、昭和11年から12年にかけて発表された自伝「彼」によれば、思い出せる最も古い記憶は《亀山町の高台の上にある権現様》の景色だという。
 名張町はただ《彼はその亀山町で生れたのではない。同じ三重県の名張町という、亀山よりはもっと辺鄙な小さい町で生れたのである》と記されているだけで具体的な記述がないことから、「彼」の執筆はおそらく名張訪問以前だったと推測される。「彼」を書いたことで生まれた土地への関心が深まり、乱歩を名張駅で途中下車させるに至ったと考えることも可能だろう。
故郷の人々の好意に感謝
 昭和31年1月、乱歩は「生誕碑除幕式」を発表してこう結んだ。
 《たとえ生誕碑にもせよ、自分の碑の除幕式に列するなんて、あまり例のないことだろうと思うが、名張市というところが、従来中央で多少名を知られたような人を、一人も出していないために、私のようなものでも、珍らしがって取り上げてくれたのだろうと思う。市の企画とか、個人の金持の企画とかいうのでなく、町の人々が、自発的に六十年もごぶさたしていた私に対して、こういう好意を見せて下さったのは、実にありがたいことだと思っている》
 除幕式から10年後、昭和40年に乱歩は死去したが、晩年になって発見したふるさと名張を題材として次のような随筆を残した。あるいは、残してくれた、というべきか。
「ふるさと発見記」28年1月 
「三重風土記」28年5月
「名張・津・鳥羽」30年1月
「生誕碑除幕式」31年1月
「二銭銅貨」31年1月
「ふるさとの記」31年7月
「名張」34年5月
「赤目四十八滝」35年8月
以下、いくつか抄録しておこう。
     *
ふるさと発見記
 名張の町そのものも美しい。四方を遠山にかこまれ、大火にあっていないと見えて、昔ながらの城下町の風情を残している。
 京都風の丹塗格子の家も残っているし、町を歩いていて古風な「杉の丸」の造り酒屋の看板に出会ったのも懐かしい。杉の小枝を丸くたばねて、軒に吊ったもので、新酒ができるたびに、新らしい杉葉をさし加えると聞いた。今どき、めったに見られない看板である。私はそれに気づいた時、同行の朝日新聞通信員にたのんで写真をとってもらったほどである。
 町の裏を大きな美しい川が流れているし、町の中にも大きな溝といってもよいような、すき通った水の小川が、町屋の軒に沿って流れている。京都の木屋町に、よく似た小川があったことを思い出す。町の往来に沿って流れる、きれいな小川は、実にのどかな物懐かしい風情のものである。
 私の生れた家の跡は新町という大通りの裏手にあった。明治二十七年の昔、父が学校を出たばかりで郡役所に勤めたのだから、月給も十円前後、したがって仮住居の家賃も一円内外であったように聞いている。四間ぐらいの小さな借家だったという。家主は名張の城代の侍医であった横山文圭という人で、その医院の裏に幾軒かの貸家が建っていた、その一つを父が借りたのである。
 父と父の母と二人住まいのところへ、私の母が嫁入りし、私が生れて、家族は四人になった。私の生れたその家は、もう別の建物に変っていたが、家主の医院は昔のままで、ただ表に大きいガラス戸が入って、外見がいささか変っているだけであった。
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二銭銅貨
 発起人筆頭の書店主岡村繁次郎さんは私と同年輩だが、昔、田山花袋の「名張少女」という小説を単行本にして同書店から出版したこともあり、なかなか企画性のある人で、私の碑が建ったのを機会に、同地の菓子屋さんに名張名物、乱歩せんべい「二銭銅貨」というものを製造販売させ、除幕式の参列者にこれをお土産として出したし、駅の売店でも売らせることにした。私は昔とちがってそういうことをいやがらぬ性格に変っている。東京でも新橋と須田町に「乱歩」というバーができているくらいだから、「乱歩せんべい」にも別に苦情は云わなかった。
 そのせんべいは、昔の二銭銅貨の本物よりは少し大きいが、円形で、表面に銅貨とそっくりの字と模様が焼きつけてある。塩せんべいではなく白い瓦せんべいである。一箱百円と五十円の二種があり、箱の中に命名の謂われ書きもはいっていて、私のよく書く「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という句が印刷してある。これからは、そのせんべいを常時取りよせておいて、来客の茶菓子に出すことにしようかと思っている。
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赤目四十八滝
 私は赤目四十八滝のすぐ近くの名張市で生まれたのだが父が郡役所に勤めて、二年ほど住んだばかりだから、故郷の記憶もなく、また故郷を訪ねる縁もなかった。あるきっかけで、六十歳に近くなってその名張市(まだ名張町であった)を訪ねたところ、それから間もなく、土地の有志が私の生れた場所へ「江戸川乱歩生誕の地」という碑を建ててくれ、除幕式に招かれて、私たち夫妻も参列したのだがそのおり初めて赤目四十八滝へ案内された。紅葉のころで、満目の錦の中を、四十八も滝のある曲りくねった渓谷を、流れに沿って登って行く。あるときは堂々と空に懸る瀑布となり、あるときは瀬を早めてうずまく急湍となり、それが二本となり、三本と分かれ、落ちると見るや、たちまち別の滝となってしぶき、泡立ち、湧き返える。見る人は先ず滝にさからって登り、帰途は幾階層とも知れぬ大小の滝の数珠つなぎに歩度を合わせる。静まり返った深淵には満山のもみじを写し早瀬も錦の色に染み、もつれ下る滝つ瀬は、時に赤く、時に青く、時に白く、目もあやに反転する鏡のようである。私たちのおとずれた日は、大阪、名古屋の遊覧客でゴッタ返していた。たとえ紅葉は犠牲にしても静かなる日を選びたいものである。

令和5年9月16日付伊和新聞掲載

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