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昭和32年(1) 名張商議所2度目の創立総会

 昭和32年が明けた。名張市は発足4年目を迎えたが、市制実施を機に始められた名張商工会議所の設立準備は依然として難航していた。名張商工会は30年度事業計画に「市経済団体としての理念を堅持し、商工会議所を設立し、市商工業の発展を積極的に推進する」との一項を盛り込み、会員を対象に趣旨説明の文書を配布、地区懇談会を開催するなどの活動を重ねたが、翌31年6月にようやく開催した創立総会は白紙に戻されるという異例の展開をたどった。32年2月6日には名張小学校講堂で2度目の創立総会を催し、全議案を満場一致で可決、役員を選出して待望の第一歩を踏み出したが、3月1日付で通商産業省に提出した設立認可申請書には諾否いずれの反応も示されることがなく、市議会9月定例会で産業常任委員会が設立促進を求めて決議を行うというこれも異例の運びに至った。
難航した設立準備
 名張商工会議所の設立準備が難航した背景には何があったのか。同会議所編集・発行の『名張商工名鑑1973年版』は「沿革編」で次のような阻害条件を指摘している。
《1、零細業者が多く、商工会議所に対する一般業者の認識が低かった。
2、昭和28年8月公布の新商工会議所法によれば、会員400名以上を必要としたが、名張市で400名の業者といえば、かなり零細なものまで入れなければならず、かかる零細商店(年額600円の会費納入すら躊躇する零細層)は会議所設立に対して極めて消極的であった。
3、有力業者の中にもかなり強い時期尚早論があり、それがブレーキとなった。名張市の貧弱な経済事情では会議所は早やすぎる、もう暫く商工会でいこうという意見である。
上記のような要因が重なって、設立準備はいくたびか暗礁に乗上げた。昭和31年2月3日、最初の発起人会を開き6月10日いちおう創立総会まで漕ぎつけたのであるが、さまざまな要因がからんで、これが白紙に戻ってしまった。その後、会議を重ねること実に30数回、ようやく足並みの一致を得て32年2月6日正式の創立総会を見るに至った》
 結局この年には通商産業省から何の通達ももたらされず、名張商工会議所の設立が認可されたのは昭和33年3月1日のことだった。『名張商工名鑑1973年版』は《同省の係官が出張して、名張市の実態について厳密周到な調査をおこなった。ことに道程には時期尚早論もあったし、中には係官にひそかに中傷的申入れをおこなう者もあって、調査はいっそう厳密だった》と舞台裏を伝える。
高北新治郎が初代会頭に
 名張商工会議所は全国426番目、会員数615の商工会議所として活動を開始した。前年の創立総会で選ばれながら待機していた役員も職務に就いた。
 初代会頭には高北農機製作所社長の高北新治郎が就任した。高北は明治21年、夏見の農家に生まれ、中町の梅田千代松金物店に住み込みで奉公。農具の改良を志して45年に独立し、農具製作所を開設した。従来より深く耕すことのできる高北式犁で全国に名を馳せ、戦後は高北農機製作所をグローバル企業に育てあげた。昭和25年に藍綬褒章、33年に紫綬褒章を受章。39年には市制10周年を記念して制度化された名誉市民の第1号に選ばれ、43年11月、81歳で死去したときには初の市葬が営まれた。

写真=栄町の旧名張町警察署に名張商工会の事務所があった。事務所は戦後、名張町役場の構内に開設され、昭和31年1月、この旧警察署1階に移転した

令和5年11月4日付伊和新聞掲載

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